1.浅井による僧侶・寺院に対する軽視・蔑視発言
◎「『僧侶』などと思うからいけない。『禿人(とくにん)』なんだ。『法師の皮を着たる畜生』なんだ。『法師と云う苗字をぬすめる盗人』なんだ。このような『禿人』が、末寺では『手継ぎの師匠』などと云って、信徒をだまし隷属させている。これは自分の身を養うための口実にすぎない。華道や茶道の『家元制』みたいなものだ」(顕正新聞 H7.1.5号)
◎「この御文(松野殿御返事『法師の皮を着たる畜生』)は、広布前夜の腐敗堕落の宗門僧侶を見通されて、前以て云い置かれた御指南と私は拝している」(顕正新聞 H10.4.25号)
◎「学会の云い分にも一文の理はある。確かに『宗制・宗規』なるものを見ると、信徒の立場は全く軽視あるいは無視されている。信徒はまるで寺院の附属物みたいに扱われているのです。(中略)『末寺の維持を助ける者が信徒だ』ということです。坊さんは女房を持ってその信徒の上にあぐらをかいている」(顕正新聞 H3.1.1号)
◎「(日蓮正宗寺院は)ただ儀式・法要の場となってしまった」(顕正新聞 H5.11.15号)
◎「いまの末寺は、華道や茶道の家元制みたいで、檀徒からカネを巻き上げるだけの制度ですよ。死身弘法の精神などは微塵もない。こんな堕落の制度で、どうして広宣流布ができようか。信心のない坊主などは追放しなきゃいかんのです」(顕正新聞 H15.5.25号)
◎「所詮、寺の法華講とは、このような職業僧侶の、生活を助けるための檀家組織だったのです」(顕正新聞 H8.5.15号)
2.池田創価学会と同じき「増上慢」
浅井の僧侶観・寺院観を要約すると、おおよそ次のようになります。
[僧侶]
「手継ぎの師匠」などといっているが、本質は自らの生活のために信徒を隷属させる「禿人」「法師の皮を着たる畜生」「法師と云う苗字をぬすめる盗人」にすぎない。顕正会組織にあっては、指導教師面することなく、活動に賛同し、見守る(飾り)だけ、ときにはパイプ役でいい。信心のない坊主などは追放しなければならない。
[寺院]
ただの儀式・法要の場に過ぎず、僧侶は、寺院の附属物である信徒の上にあぐらをかいていて、カネを巻き上げるだけ。
日蓮大聖人は『新池御書』に、
「末代の衆生は法門を少分をこゝろえ、僧をあなづり、法をいるがせにして悪道におつべしと説き給へり。法をこゝろえたるしるしには、僧を敬ひ、法をあがめ、仏を供養すべし」
と御教示あそばされています。増上慢の浅井は、この御教示を心して拝すべきでしょう。


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