立正佼成会の誤りを破す 立正佼成会の誤りを破す

立正佼成会の誤りを破す


立正佼成会の概要

立正佼成会本部【創立】昭和13年3月
【創始者】庭野日敬(開祖)、長沼妙佼(脇祖)
【信仰の対象】久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊
【教典】『妙法蓮華経』『日蓮聖人遺文』『法華三部経』

立正佼成会の沿革

立正佼成会(りっしょうこうせいかい)は、霊友会の会員だった庭野日敬(にわのにっきょう)と長沼妙佼(ながぬまみょうこう)が同会から離脱して創立し、庭野の姓名判断・方位学・易学等と長沼の霊能を売り物に、戦後、急激に勢力を拡大した在家教団です。

何でもありの庭野日敬

明治39年に新潟に生まれた庭野日敬は、17歳の時に東京大久保の炭屋に丁稚(でっち)で入り、そこの主人の石原淑太郎から六曜(先勝・友引・仏滅等)や九星(一白・二黒・三碧等)、さらには易占いによる方位方角や、五行説等を学びました。
26歳の時には、長女の中耳炎を治そうとして真言密教系の女修験道(しゅげんどう)者の綱木梅野に弟子入りし、九字を切ったり加持祈祷(かじきとう)やら水行やらいろいろな修行を重ねて、ついには師範代にまでなりました。
またその後、小林晟高(せいこう)という人物からは、姓名判断と運勢鑑定を学び、のちに佼成会でこれを大いに利用したようです。
このように、霊友会に入信する以前の庭野は、とにかく何でもありで学びました。この当時の経験が、佼成会の方向性に大きな意味を持つことになります。日敬は佼成会発足後、教勢を拡大するにあたって、こうした迷信や俗信、占い、祈祷など何でも取り入れて布教の手段にしたのです。現在においても、多分にそのカラーが残っているようです。

庭野日敬と長沼妙佼の出会い

漬物屋を営んでいた庭野日敬は、子供の病気を予言されてそれが当たったのをきっかけに霊友会に入会し、その後に先祖の霊を祀(まつ)ったら子供の病気が治ったとして霊友会信仰にのめり込み、翌年には支部長になりました。
仕事は漬物屋から牛乳販売に転業した日敬でしたが、その配達先のお客のなかに、病気がちな焼き芋屋の奥さんがいました。その奥さんは病気を治したい一心で、日敬に勧められて霊友会に入会しました。それが長沼マサ(のちの妙佼)だったのです。焼き芋屋で働いていた甥っ子がある時腹痛を起こし、それが先祖供養で治ったということで、長沼妙佼は霊友会にのめり込んでいくことになります。
以後、庭野と長沼はコンビを組んで布教に励んでいましたが、ある時、全国支部長会議の席上で、霊友会会長・小谷キミが「法華経の講義なんて時代遅れだ。そんなことをするのは悪魔だ」などと発言しました。それを聞いた二人は霊友会からの脱会を決意し、昭和13年3月、「大日本立正交成会」を設立したのです。

その後の展開

昭和17年、東京杉並に新本部道場を作り、庭野の姓名判断や易学、それと長沼の霊感による病気治しを売り物にして布教を展開しました。しかし昭和18年、霊感指導が人心を惑わすという理由で二人は検挙され、この事件によってほとんどの支部長が脱会してしまいました。
また昭和31年には、読売新聞が「大日本立正交成会の土地(現本部の所在地)購入に関して不正行為があった」と報道して教団批判キャンペーンをやり、それによって庭野は国会に喚問されることになりました。
この事件の対処法などを巡って教団内に庭野批判が起こり、ついには「庭野を追放して長沼を教祖にしよう」というクーデターも計画されたましが、翌年に長沼妙佼が病気で死去したため、この騒ぎも沈静化していきました。
その後の昭和33年1月、庭野は突如として、教団創立から長沼の死去までを<方便時代>と規定し、今や<真実顕現の時代>に入ったと言い出しました。そして霊能中心の信仰から教学(きょうがく)重視の信仰への転換をはかるとともに、本尊を<久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊>にすることを宣言しました。
さらに昭和35年、庭野は教団の名称を「立正佼成会」と改め、昭和39年には本部に大聖堂を建てて、本尊である久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊の立像を安置しました。昭和40年、庭野は第二バチカン公会議に出席したのち、各宗との協力関係を重視するようになり、世界宗教者会議の開催に尽力したりしました。
庭野は平成3年になって長男の庭野日鑛に会長職を世襲し、自らは開祖と称していましたが、平成11年に死去しました。

立正佼成会の教義の概要

立正佼成会の本尊

立正佼成会の本尊については、長沼妙佼の霊感によってコロコロ替わってきた経緯があります。
〔発足当初〕霊友会の曼荼羅(まんだら)に、守護神として毘沙門天を加えたもの
〔昭和15年〕中央に南無妙法蓮華経、その右に「天壌無窮」、左に「異体同心」と書いた旗
〔昭和17年〕上記の旗を掛け軸にし、守護神として大日如来を加えたもの
〔昭和20年〕庭野が「久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊」と書いたもの
〔昭和23年〕「日蓮聖人の大曼荼羅」と称して、庭野が書き写したもの

そして長沼が死去した翌年の昭和33年、庭野は「今までは方便の時代であり、今こそ、久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊を本尊とすべきである」と宣言しました。これで6種類目の本尊ということになります。
また会員の場合、総戒名のみを本尊とするのは入会当初のことで、信仰が進んでくると「御守護神」や釈迦の絵像を祀り、さらに幹部級になると「大本尊」といわれるものになります。

教義と実践

まず「教菩薩法 仏所護念」と書かれたタスキをかけ、仏壇に総戒名を祀(まつ)ってその前に霊鑑(過去帳)を置き、朝晩に「聖典」という教典を読んで先祖供養をする・・・このあたりまでは基本的に霊友会と同じです(霊友会の項参照)。
ただし具体的な修行方法は長沼の霊感によって決定されたり、真言の九字や水行などの密教的要素の強い修行も行います。さらには布教の手段として、庭野の姓名判断や易学なども用います。
また庭野は、昭和33年の「真実顕現」宣言と同時に、「法華三部経を日常生活に活かす」という主張を始めました。これは、根本仏教の四諦(したい)・八生道(はっしょうどう)・十二因縁(じゅうにいんねん)と、大乗仏教の示す六波羅密(ろっぱらみつ)の法門を用い、これによって「反省と精進を重ねて仏知見(ぶっちけん)を開き、菩薩道の実践を目指す」のだそうです。
また佼成会に入会しても、「それまでの宗教を捨てる必要はない」「自分の檀家寺や氏神を大切にするように」などと教えられます。これは別項の『生長の家』などと同じ「万教同根(すべての宗教は根っこは同じ)」的発想があり、他宗批判をしないというスタンスです。他宗を容認し、慈善事業や平和運動を推進するのも霊友会ゆずりと言えます。
入会したものは「法座」という少人数のグループ座談会の一員になり、会員はそこを信仰修練の場としています。幹部の指導を受けることを「結んでもらう」といい、また「病気にかかったり、災難にあったりするのは仏様の慈悲のムチである」として、ありがたい試練として自分の修行に取り入れていきます。これを「お悟り」といってます。
そうした修行の中でも、「お導き(=布教活動)」と「本部通い(=労働奉仕)」が特に強調される傾向があります。

立正佼成会が邪宗教である理由

コロコロと変わる本尊

立正佼成会には、これまでに6種類もの本尊が登場しました。現在でこそ「久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊」が本尊となっていますが、そこにいたる経緯は前述の通りです。佼成会は霊友会の祖霊信仰を受けついだ教団ですから、独自の本尊がもともとないのが当然ではありますが、それにしてもその雑乱(ぞうらん)ぶりは驚くべきです。
その要因は、副会長だった長沼妙佼の神がかり霊感によるものです。庭野日敬の自伝には、
「霊友会では、降神して啓示(けいじ)を聞くことを重要な行としていた。(中略)下がってくる神は、不動明王、八幡大菩薩、毘沙門天、七面大明神、日蓮大菩薩が主だった」
などと書かれています。神がかりだの霊感だのは、仏教とは何の関係もない外道です。法華経をあれこれと知りたげに語る日敬と佼成会ですが、その実は迷信・邪心に振り回されていたわけです。
日蓮大聖人は、こうした本尊雑乱について、
「諸宗は本尊にまどえり。(中略)例せば、三皇已然に父をしらず、人皆(ひとみな)禽獣に同ぜしがごとし」
と厳しく断じておられます。仏教においては、教理・経文をもって厳格に定められるべき本尊が、長沼の「神のお告げ」などという、いかがわしい外道義によって変遷してきた経緯だけを見ても、この教団が仏教、さらには法華経などとはまったく無縁のシロモノであると断定できます。

法華経を踏みにじる庭野

法華経の開経である無量義経には、「四十余年未顕真実」という経文があります。これは
「四十余年には未(いま)だ真実を顕(あらわ)さず」
と読みます。
釈尊(お釈迦様)は50年間にわたって八万法蔵(はちまんほうぞう)という膨大な教えを説きましたが、そのうち42年間はさまざまな方便の教えを説き、最後の8年間に法華三部経(法華経の開経である『無量義経』、真実の経である『法華経』、結経である『観普賢菩薩行法経』)と涅槃経を説きました。
「42年間に説かれた膨大な諸経は、教えを受ける相手の機根(きこん)に合わせ、それぞれの病気に応じて薬を与えるという方便の教説であり、仏の悟った真実の成仏の法ではない。これから説く法華経こそ一切を成仏に導く真実の教えである」
というのが「四十余年未顕真実」なのです。そして『法華経』方便品には、
「正直に方便を捨てて、但(ただ)無上道(むじょうどう=唯一最高真実の法、すなわち法華経)を説く」
と示されているのです。ところが庭野日敬はこの「四十余年未顕真実」について、
「ここで誤解してならないのは、今まで真実でないことをお説きになったというのではない。今までの説法もすべて真実には違いないのだが、まだ真実の中の真実を『すっかり』出しきってはいなかったという意味です」
などと、信者が何も知らないのをいいことに、デタラメな解釈をして平気な顔をしています。これでは前述の、方便品の「正直に方便を捨てて」の意味が通らなくなってしまいます。成仏の道の真実ではないからこそ「捨てる」のです。
庭野の法華経解釈など一事が万事この調子で、佼成会で法華経の根本的な教義として教えている『四諦(したい)』『八生道(はっしょうどう)』『十二因縁(じゅうにいんねん)』と、大乗仏教の示す『六波羅密(ろっぱらみつ)』は、法華経の中では、ただ単に過去の方便の教え中でこういう教えがあったと紹介されているだけですが、それをあたかも仏の真実の教え、法華経の根本教義のように信者に教え、精神修養を勧め道徳論を押しつける庭野は、法華経を踏みにじる者と言わざるを得ません。

他宗容認は法華に非(あら)ず

法華経には「正直捨方便」「不受余経一偈(余経の一偈(いちげ)をも受けざれ)」とあるとおり、方便経その他のあらゆる教えを捨てて法華経のみを信ずるよう説かれています。にもかかわらず庭野は、「それまでの宗教を捨てる必要はない」「自分の檀家寺や氏神を大切にするように」などと会員に教え、他宗・他教を容認しています。
これは法華経の精神にまったく背くものであり、不純物まみれの法華信仰となります。伝教大師が、
「法華経を讃(さん)すと雖(いえど)も還(かえ)って法華の心を死(ころ)す」
と言われたのは、まさに庭野のような者を指すのです。

日蓮大聖人の「南無妙法蓮華経」を盗む

これは霊友会も同じですが、佼成会では会員に、庭野が勝手に作った本尊に向かって題目を唱えさせています。
しかしこの五字・七字は、釈尊(お釈迦様)の法華経の文上にはいっさい説かれていません。末法(まっぽう)の時代に至って、日蓮大聖人が初めて説きいだされた本門三大秘法であります。したがって、釈尊の法華経を依経(えきょう=よりどころの教典)とする佼成会には何の関係もありません。
この題目は本門三大秘法の「本門の本尊(弘安2年10月12日御図顕の本門戒壇の大御本尊)」に具足する「本門の題目」であります。したがって、日蓮大聖人が顕(あらわ)された本門の本尊に向かい奉り唱えるところの題目です。
日蓮大聖人は、
「あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ」(『経王殿御返事』)
「日蓮等の類の弘通(ぐづう)する題目は(中略)所謂(いわゆる)日蓮建立の御本尊、南無妙法蓮華経是(これ)なり」(『御講聞書』)
と御教示であり、庭野が勝手に作った本尊などに向かって唱えるのは論外です。

日蓮大聖人を悪(あ)しく敬う

庭野日敬は日蓮大聖人について、
「日蓮聖人は考えられました。禅も、念仏も、その他の宗派も、それぞれいい教えには違いないけれども、いずれも仏の教えを一点だけ集中的に見つめているだけで、円熟した完全さがない」(仏教のいのち 法華経)
などと馬鹿げたことを言っています。
しかし日蓮大聖人は、念仏や禅宗他について、
「念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説」
と一刀両断に斬り捨てられているのであり、庭野の言う「それぞれいい教えには違いない」どころではありません。まるで大聖人の御精神に理解が及んでいないのです。
また庭野は、
「『法華経』が最高の教えであることは間違いないのですけれど、それを讃(たた)えるために他の教典をけなしたりするのは心得ちがいといわなければなりません」
などとも言っています。
しかし日蓮大聖人は、
「謗法(ほうぼう)を責めずして成仏を願わば、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし」
と仰せであります。いったい庭野は、この日蓮大聖人の御聖訓をどう解釈するつもりでしょうか。
信者が何も知らないと思って、好き勝手に言いたい放題であります。日蓮大聖人を悪しく敬う不逞(ふてい)の輩(やから)、それが庭野日敬です。

以上、ごく簡単ではありますが、立正佼成会の教義についてその邪宗教である理由を述べました。皆さま方におかれましては、このような邪法邪師の邪義に惑わされることがありませんよう、くれぐれもご注意願いたいと思います。

“正しい宗教と信仰”