本門戒壇の大御本尊を否定 本門戒壇の大御本尊を否定

この項では、まず初めに、平成5年11月号の『大日蓮』に掲載された、大宣寺御住職・菅野慈雲御尊師(現・菅野日龍御尊能化)の、本尊模刻事件に関する手記を掲載いたします。
菅野御尊師は昭和53年、学会が勝手に模刻した本尊を、大宣寺から本山内事部まで運ぶ任にあたった直接の関係者であられ、詳細に当時の状況を証言されています。

“七体の模刻本尊”
総本山に納められた、七体もの模刻本尊

「御本尊模刻の大謗法」  菅野慈雲

菅野日龍御尊能化日蓮正宗法華講連合会東京第二地方部・総決起大会を、東京都内の支部は大願寺において、三多摩地区の支部は大宣寺において開催されることになり、ここに八カ寺の指導教師、各支部の講員、直属信徒の皆様方が、大会開催寺院の大宣寺に結集いたされ、かくも盛大に、そして熱気あふれる中、決起大会が催されましたことを心よりお祝い申し上げます。
本日、東京第二地方部の総決起大会が開催された機会に、皆様方既に種々の報道で御存知のことと思いますが御本尊模刻の件について少々お話いたしたいと存じます。
なぜならば、当時の時局にあって、私白身、模刻された御本尊を大宣寺から本山内事部までお運び申し上げるに直接関係し、これについて多くの方々よリいろいろ質問を受けますので、私が関わった部分を明らかにしておきたいのであります。

昭和53年1月初め、日達上人よりお電話があり、
「今、赤澤朝陽の社長が年始の挨拶にきて、学会からの依頼で多数の御本尊を板本尊に直したと聞いた。何体彫刻したのか、赤澤に行って調べて来るように」
と言われまして、調査したのが初めであります。 浅草の赤澤佛具店本店に出向き、社長に面会して尋ねたところ、「全部で八体です」とのことでした。
それは、
(1)学会本部安置(昭和二十六年五月十九日大法弘通慈折広宣流布大願成就)
(2)関西本部安置(昭和三十年十二月十三日)
(3)ヨーロッパ本部安置(昭和三十九年十二月十三日)
(4)創価学会文化会館安置(昭和四十二年六月十五日)
(5)学会本部会長室安置(昭和四十二年五月一日)
(6)アメリカ本部安置(昭和四十三年六月二十九日)
(7)賞本門事戒壇正本堂建立(昭和四十九年一月二日)
(8)池田大作授与の御守本尊(昭和二十六年五月三日)

以上八体の御本尊で、それらを板本尊に彫刻したことが判明しました。
板本尊として彫刻するに当たり、各紙幅の御本尊様を写真に撮り拡大して板に彫刻したこと、特に池田大作氏授与の御守御本尊は、長さ30センチメートルほどに拡大して彫刻した等の説明を受け、私は大変驚き、また、事の重大さを身を以て感じて、早速、寺に戻って日達上人に電話にて御報告申し上げました。日達上人は、お電話口で、
「とんでもないことだ。誠に無礼なことである」
と申され、特に御守御本尊を彫刻したことに対してお怒りの御言葉があったことを記億しております。

“御守御本尊の模刻本尊”
これが上記(8)の、池田大作授与の御守本尊を勝手に板に模刻した本尊。これを東北研修所に安置して、自分の身代わりと称して拝ませようとした。

この御本尊模刻事件の記録文書を見ますと、昭和49年9月2日の宗門と学会との連絡会議の席上、池田大作氏より「学会本部安置の紙幅の御本尊様が、年月を経て傷みかひどいので板本尊にしていただきたい」旨の願いがあり、日達上人は「いいでしよう」との御回答をされたと書いてあります。
このいきさつについて、私が日達上人に直接お聞きいたしましたところ、
「板本尊にしてほしいという願いはあったが、その後、御本尊下附願いが正式に出てこないので、どうしたのかと思っていたら、既に板本尊に直していたということを後から聞かされた」
と申されておりました。つまり、昭和50年1月1日、学会本部に模刻された板本尊を安置し、池田大作氏が導師をして入仏式を行っていたのです。
この尋常でない行動に、幹部や職員は不信と疑問を持ちはじめました。これらの疑問を晴らすため、昭和50年10月23日、当時総監でありました法道院・早瀬日慈御尊能化を学会本部にお迎えし、模刻本尊の入仏法要を修したのですが、しかし、この不信と疑問は深まっていくばかりでした。
なぜならば、他の七体の模刻本尊も既に各地に安置されていたからです。このことが一般会員の知るところとなり、当時の教義逸脱路線と相俟(あいま)って大きな問題へと発展しつつあったのです。
学会では、この状況を打破し会員の目をくらますために、再三にわたり日達上人に件(くだん)の模刻本尊の入仏開眼法要の大導師を願い出ましたが、断固としてお受けになりませんでした。
そこで学会は、昭和52年11月7日に創価学会創立47周年記念法要を執行することにして、日達上人の御出ましをお願いしたのです。
再三の願い出もあり、日達上人はやむなく御承諾遊ばされて、記念法要の大導師、また模刻本尊の開眼をなされたのです。これによって学会本部安置の模刻本尊(註;上記(1))につきましては、日達上人が御認可された板本尊となりましたので、そのまま本部に安置されることになったのです。他の七体につきましては御認可も御開眼もされていないので、結果的に総本山に納めることになりました。

昭和53年9月2日の連絡会議の記録の中に、学会が模刻した数体の板本尊の処置について御指南を求めたのに対し、日達上人は池田会長に、
「そんなものは人目にさらすな。金庫の中にでもしまっとけ」
と叱責されたと記されています。が、翌3日付の聖教新聞には、
「本部として謹刻させていただいた数体の御本尊について、日達上人よりすべて学会本部の宝物としてお納め下されば結構です』との御指南があった」(趣意)
と、事実を変えて掲載しました。


数日後、突然、北條理事長から私のところに電話があり、
「謹刻した御本尊について、学会の宝物としてしまっておくように御指南があったが、学会としても置く場所もないので、どうしたら良いものか」
という話がありました。私は即座に、
「総本山にお納めするのが一番良いのではありませんか」
と申したところ、北條理事長は、
「自分たちで本山にお運びすることは、事情が事情だけに、それはちょっとできかねるので大宣寺へお運びしますから、よろしくお願いします」
とのことでした。 また、
「謹刻した御本尊は、ヨーロッパやアメリカから返送させますので、日本に着き次第お運びします」
ということで電話を切り、すぐにこのことを日達上人に御報告申し上げましたところ、上人は少しためらっておられましたが、
「学会でそうしたいと言うなら、そのようにしなさい」
との御返事を下されました。9月27日午前に、再度北條理事長から電話があり、
「先日お話した御本尊が全部揃いましたのでお届けします。人目につくとまずいので夜中の一時頃着くようになりますが、くれぐれもよろしくお願いします」
とのことでした。この日は、一日中落ち着かない気持ちで待っていますと、夜の12時近くに中西治雄総務から、
「これから本部を出ますのでよろしく」
との連路を受け、私と当時執事をしておりました毛利博道房の二人で、駐車場に出て待機しました。
しばらくすると一台のワゴン車が着き、中西総務と山崎顧問弁護士が付き添ってきましたので、車から大宣寺の応接間に運び、七体の板本尊と、記名された書類を引き合わせて間違いのないことを確認して中西さんと山崎さんには帰ってもらいました。
早速、お預かりした模刻本尊を大宣寺のワゴン車に積み替えて、御本尊のお伴をして本山に向かい、午前6時30分ごろ着山しました。ちょうど大坊の朝の勤行が終わった頃であったと思います。日達上人が内事部に御出仕になり、主任理事の光久諦顕師立ち会いのもと、これまでの経過報告をして模刻本尊七体をお届けして帰ってまいりました。
この日は、午後から日達上人の御命によりアメリカとブラジルの寺院の状況を調査するため出発することになっておりましたので、大宣寺に着くや、すぐに空港に向かい、出国しました。私が海外に行っている最中、10月3日付で宗務院より「全国寺院教会住職主管教師僧侶各位」に対し院達が出されました。
「このたび、創価学会に於ては、これまでに彫刻申上げた板御本尊については、すべて総本山へ納め奉ることとなり、去る9月28日、七体の板御本尊が、総本山へ奉納せられ総本山に於ては29日奉安殿へお納めいたしました。但し、学会本部安置の日昇上人板御本尊については、御法主上人猊下御承認のもとにそのまま本部に安置せられることになりました。依って、今後は創価学会の板御本尊のことに関しては、一切論議を禁止する旨、御法主上人猊下より御命令がありましたので、充分御了知下さるよう願います。(中略)右、通達いたします」
との通達により、模刻本尊に関する問題は一応落着したのです。
しかし、学会内部への波紋は広がる一方でしたので、11月7日、創価学会創立48周年記念登山代表幹部会の名のもとに池田大作氏はじめ代表幹部2000名と、全国の教師を大講堂に結集して公に御本尊模刻の大罪を認め、深くお詫びをしたのです。いわゆる「お詫び登山」です。

最近、学会では 
「池田先生は聞違っていなかった」
「御本尊模刻事件は事実無根であり、日達上人が犯した罪を池田先生がかばっているのだ」
等と会員に口コミで流しており、更に
「模刻といってもたった八体じゃない」
と、とんでもないことを言う婦人部がいると聞き、私が知り得る事実と真相を述べ、その誤りを指摘する次第です。
<以下略>

“池田が自ら行った模刻本尊開眼入仏法要”
池田が自ら行った模刻本尊開眼入仏法要を伝える聖教新聞(昭和50年1月4日付)

以上、菅野御尊師の手記を掲載させていただきました。
当時、池田会長が自ら御本尊の入仏開眼法要を執行した直後から、創価学会組織内で、大きな動揺が広がりました。
「総本山の許可は受けているのか」
「板本尊の入仏式をなぜ会長が行うのか」

という、幹部や本部職員、また一般会員たちからの率直な疑問でありました。
思うに、この当時の学会員は、現在よりもはるかに御本尊に関して良識がありました。それに比して、ニセ本尊を大量生産・販売しても何も感じない現状は、驚くばかりです。

日達上人に罪をなすりつける学会の卑劣

昭和53年11月7日、いわゆる「お詫び登山」における幹部会の席上、学会を代表して辻副会長が、
「不用意にご謹刻申し上げた御本尊については、重ねて猊下のご指南をうけ、奉安殿にご奉納申し上げました。今後、御本尊に関しては、こうしたことも含めて、お取り扱い、手続きなどは、宗風を重んじ、一段と厳格に臨んでまいりたいと思います」
と学会の非を認め謝罪したことにより、前述のとおり院達が出され、模刻事件は一応、収束しました。ところが学会は平成2年以降、
「学会に誤りはなかった」
「模刻事件は日達上人の失態をかばって学会が罪をかぶったのだ」

などと言い始め、こともあろうに日達上人に罪をなすりつける暴挙に出たのです。学会を善導しようと、常に大慈大悲のお立場から心を砕かれていた日達上人に対して、今ごろになって「死人に口なし」とばかりに罪をなすりつけるとは、何という不知恩な者たちなのでしょうか。
辻副会長などは、この事件から10数年たってから、
「この発言(お詫び登山での謝罪)は、日達上人を守るために宗門が作成した文書を読んだだけ」
などと、実に情けない言い逃れをする始末。子供でも、これほど見苦しい言い逃れはしないでしょう。

日達上人に助けを求めた池田大作
入仏法要の騒動で学会内部が動揺し、うろたえた池田は、当時の総監・早瀬日慈御尊能化を学会本部にお迎えし、体裁(ていさい)を繕(つくろ)うために入仏法要をあらためて行っていただきました。
しかしそれでも学会内はおさまらず、困った池田は、その後も再三にわたって、開眼法要のために日達上人の学会本部へのお出ましを請(こ)い願いました。しかし日達上人は、池田からのこの願い出を絶対にお受けにはならなかったのです。

その間、52年路線における教義逸脱問題が表面化しはじめ、御宗門は善導の上から学会の邪義を厳しく追及し、池田は窮地に追い込まれました。そこで池田は、日達上人にすがって自己の保身を優先したのです。
つまり、何とか日達上人を本部にお迎えして、「板御本尊は猊下の御認可をいただいたもの」ということを広くアピールし、自分への非難をかわそうとしたのです。そこで、学会の創立記念法要に御臨席賜るという名目で、日達上人の本部へのお出ましを、しつこく懇願したのです。
日達上人は、これまで断固として開眼を断られてきたものの、やむなく池田の申し出を御承諾あそばされ、昭和52年11月7日、創価学会創立47周年記念法要の大導師を勤められるとともに、板御本尊の開眼を行われたのです。これによって学会本部安置の御本尊については、「追認」という形で猊下の御認可を賜りました。

「学会は悪くなかった」「日達上人が許可したことを忘れたので、それを学会がかばった」などというならば、池田自らが開眼法要を行ったにもかかわらず、早瀬日慈御尊能化に開眼法要を奉修していただき、さらにその上に、執拗に日達上人猊下にお出ましを願ったのか、その理由が分かりません。ぜひ納得いくように説明してほしいものです。

赤沢朝陽社長のウソ証言
学会本部安置の御本尊に関しては、以上の経過により一応は落ち着きました。
ところが翌昭和53年正月、年始の挨拶のためお目通りしていた赤沢朝陽社長から、
「多数の本尊を池田の依頼で模刻した」
との報告が日達上人になされました。驚かれた日達上人は、ただちに大宣寺御住職・管野慈雲御尊師(菅野日龍御尊能化)に調査の指示を出されたのです。その後の経過は、冒頭の管野御尊能化の手記のとおりであり、模刻本尊は追認を受けた学会本部安置以外に、何と七体もあったのです。
さて、この赤沢朝陽・赤沢猛社長。
赤沢社長は、平成5年9月30日付の聖教新聞に登場し、
「昭和49年の秋ごろに日達上人にお目通りした。日達上人は学会の本尊彫刻の件を最初から承知していて、赤沢で彫っていること、他にも数体あることを聞いているということだった」
という趣旨の証言をしました。現在の学会では、この赤沢証言を唯一の証拠として「日達上人は本尊模刻を承知していたのに忘れたのだ」と主張しているようです。
しかしながら、日達上人猊下は最晩年まで矍鑠(かくしゃく)としておられ、その記憶力は人並み以上に優れていたお方です。その猊下が、昭和49年の秋に覚えていた「御本尊に関わる大事」を、たった3、4ヶ月で忘れてしまうなどあり得ません。
日達上人は初耳だからこそ、「とんでもないことだ。誠に無礼なことである」とお怒りになられたのです。
それに、模刻本尊七体の中には、「池田大作個人が授与」された「御守本尊」を拡大して模刻したものがありました。御守本尊を板本尊として彫刻し、他人に拝ませるなどということは、日蓮正宗古来より、絶対に許されることのない行為です。それを、御法主上人猊下が承認したり黙認したりなど、絶対にあり得ません。
平成5年になって、いきなり登場した「赤沢証言」は、御宗門に模刻事件をあらためて破折されて答えにつまった学会が、窮余(きゅうよ)の策として打ち出したでっち上げ証言であり、裏付けも何もなく、信憑性はゼロです。

昭和49年4月に完成していた模刻本尊
御本尊が台座に差し込まれている部分を、通常「ほぞ」とか「あし」と呼びます。
模刻本尊七体のうち、五体の模刻本尊の「ほぞ」に、彫刻した年月日と彫刻師の名前が刻まれていました。これは、本体の板に彫刻が終わった段階で刻字するもので、そのあとで漆と金箔の工程に回します。
そのうち、「賞本門事戒壇正本堂建立昭和四十九年一月二日」という模刻本尊のほぞに「昭和四十九年四月  朝陽」とハッキリと刻まれています。
池田大作が、最初に「学会本部の御本尊を板御本尊にしたい」と願い出てきたのは、昭和49年の9月です。
しかし実は、その5ヶ月以上も前の同年4月には、すでに無許可で模刻本尊の彫刻を終えていたのです。
これは揺るぎない証拠であり、学会がいかに日達上人に罪をかぶせようとしても、模刻事件の真実は明らかなのです。

“模刻本尊のほぞ”
模刻本尊のほぞには、はっきりと「昭和四十九年四月」の刻印がある

ちなみに、これら七体の模刻本尊は現在も、総本山内の倉庫に保管されています。これらは正式な本尊ではなく、ただ単に形を似せて「彫刻されただけの板」なので、御宝蔵などには保管されていません。
創価学会という異流儀派生集団の、大謗法の証拠品として、また後代への戒めとして、永くその姿を残すことになるでしょう。
学会がいかに歴史を改竄(かいざん)しようとしても、真実は一つです。学会の悪宣伝に惑わされることなく、どうか冷静な眼で学会の信仰を見つめ直し、正邪の分別をつけてください。

“正しい宗教と信仰”