法華宗陣門流の誤りを破す 法華宗陣門流の誤りを破す

法華宗(陣門流)の誤りを破す


法華宗(陣門流)の概要

本成寺【派祖】日陣
【本尊】宗祖奠定の久遠常住輪円具足の大曼荼羅
【経典】妙法蓮華経開結十巻・日蓮遺文・日陣の著述
【本山】本成寺

法華宗(陣門流)の沿革

日陣法華宗(陣門流=じんもんりゅう)は、日陣(にちじん)を派祖とする勝劣派(法華経本門と迹門に勝劣があるとする派。日蓮宗は逆に一致派)の一派で、宗祖の本弟子六人(六老僧)の中の、日朗の系統です。
日陣は18歳の時、本国寺日静に入門し宗義を学びました。そして日陣が31歳の時に、師の日静が臨終に先立って本成寺を日陣に与えました。ここが陣門流の本山となっています。また、日陣の法兄である日伝には本国寺を与えました。
応永3年(1396年)、日陣は『選要略記』を著して、「本迹勝劣」の立場を明らかにしました。しかし当時、京都の法華宗は、妙顕寺・本国寺を筆頭に公家の庇護(ひご)によって栄華を極めていましたが、信仰面では折伏(しゃくぶく)を捨てて摂受(しょうじゅ)中心とし、教義の面では本迹一致を唱えるなど、天台宗と区別の付かない状態でした。
そこで日陣は、本国寺の日伝を諫(いさ)めるために上洛(じょうらく)して本迹勝劣を主張し、以後8年間に渡って本迹論争が展開されることとなり、最終的には両者は決裂に至りました。
その後も日陣は本成寺・本禅寺・本興寺を中心に本迹勝劣を主張し続け、その結果、本国寺系700余の寺院の内、300余カ寺が日陣に従ったといわれています。しかし日陣の没後、江戸時代には幕府の宗教政策も影響して170カ寺程度まで衰退しました。
明治に入り、本成寺は、「一宗一管長制」という官布告によって、身延日蓮宗、本圀(国)寺等とともに日蓮門下合同に加わりました。しかし明治9年には「日蓮宗本成寺派」として別立し、明治31年には「法華宗」と改称しました。
その後、昭和16年には法華宗本門流(本門法華宗)らと新たに「法華宗」を形成しましたが、昭和27年に法華宗は分裂し、本成寺派は「法華宗(陣門流)」と称し、現在に至っています。

法華宗(陣門流)の教義の概要

本迹法体(ほんじゃくほったい)勝劣

これは、本国寺日伝が「一往勝劣(修行と悟りの因果に約して勝劣あり)・約体一致(所説の法体に約して勝劣なし)」と主張したのに対して、日陣が「約説勝劣(本門に説かれた法体は迹門より勝れている)」と唱えたものです。

寿量一品正意(じゅりょういっぽんしょうい)

これは、日蓮宗等が「迹門の実相も本門にいたって開会(かいえ)すれば、本迹の勝劣はない」とする主張に対して、日陣が「本迹を開会する能説(のうせつ)の教えは本門寿量品に限る」と述べたものです。

本尊について

陣門流では、本尊について「日蓮大聖人が奠定(てんてい)された、久遠常住輪円具足(くおんじょうじゅうりんねんぐそく)の大曼荼羅」と規定しています。
しかし日陣は、本成寺日印(六老僧日朗の弟子で、本成寺を開創)の思想を継承し、「一尊四士(身延日蓮宗と同様)」「一塔両尊四士」の仏像も本尊として認めています。

修行について

陣門流では、『法華経』一部二十八品の読誦(どくじゅ)を主張しています。その理由として「宗祖が読誦されたゆえ」「一念三千は迹門の文を借用しているゆえ」「本門の中に迹門の効能を含むゆえ」を挙げています。

法華宗(陣門流)が邪宗教である理由

陣門流の「本迹法体勝劣」は空理空論

陣門流の「本迹勝劣」は身延日蓮宗などに比べれば、より法華経の教理に沿った解釈ではあります。しかしあくまでも「より酷(ひど)いものに比べれば」でしかありません。
末法の時代は、経文の予証どおり釈尊の法華経(白法)が隠没するのであり、日蓮大聖人の法華経は、そのさらに一重(いちじゅう)奥に秘されるところの肝要の法(大白法)であります。
宗祖日蓮大聖人は、
「日蓮が法門は第三の法門なり」(常忍抄)
「天台未弘(みぐ)の大法」(撰時抄)
「彼は脱、此(これ)は種(しゅ)なり。彼は一品二半(いっぽんにはん)、此は但(ただ)題目の五字なり」(観心本尊抄)
と御教示であり、末法適時の大法は、文底下種(もんていげしゅ)の南無妙法蓮華経であり、釈尊の文上の寿量品は、末法には無用の、在世脱益(ざいせだっちゃく)の法なのです。
しかるに日陣が、本門の教主・釈尊を仏像にした「一尊四士(身延日蓮宗と同様)」「一塔両尊四士」の仏像も本尊と認めている以上、陣門流が主張する「寿量品」はあくまで在世脱益の領域であり、大聖人の説かれた末法の要法とはなり得ません。
したがって、末法において無益(むやく)となった文上の法華経を持ち出して「本迹勝劣」を論ずること自体、無意味な空論なのです。

寿量一品正意

したがって、陣門流が主張する「寿量一品正意」も、その寿量品は文上体外(もんじょうたいげ)の寿量品であり、そこに説かれる釈尊は、本已有善(ほんいうぜん)といって、過去世に成仏のもとになる仏種(ぶっしゅ)を下された衆生に対する本果妙(ほんがみょう)・脱益(だっちゃく)の仏です。
しかし文上の寿量品では、本果妙の仏の化導(けどう)は説かれますが、その本果を成就せしめた本因については明かされていません。
日蓮大聖人が仰せの寿量品とは、文上脱益の寿量品のことではなく、御書に「寿量品の肝心」「寿量品の文の底」と示される文底・内証の寿量品であり、寿量文底下種(げしゅ)の、本因妙の妙法蓮華経です。
しかるに、読誦(どくじゅ)するところの寿量品も体外(たいげ)ではなく「体内の寿量品」であり、また方便品も、内証の寿量品を助け顕す「体内の方便品」です。日陣が唱える「寿量一品正意」は、宗祖の深意には遠く及ばぬ教義なのです。

釈尊の仏像を本尊とする誤り

先述のとおり陣門流では、宗祖の曼荼羅を本尊としながら、「一塔両尊四士」の仏像本尊形式こそ宗祖正意の本尊であるとしています。
しかし日蓮大聖人は、
「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり」(草木成仏口決)
「妙法蓮華経の御本尊供養候ひぬ。此の曼陀羅は文字は五字七字にて候へども、三世諸仏の御師(乃至)此の曼陀羅は仏滅後二千二百二十余年の間、一閻浮堤の内には未だひろまらせ給はず」(妙法曼陀羅供養事)
「法華経の題目を以て本尊とすべし(乃至)釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給えり。故に全く能生を以て本尊とするなり」(本尊問答抄)
「問ふて云(い)はく、然(しか)らば汝(なんじ)云何(いかん)ぞ釈迦を以(もっ)て本尊とせずして、法華経の題目を本尊とするや。答ふ、上に挙ぐるところの経釈(きょうしゃく)を見給へ、私のぎ(義)にはあらず。釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり。末代今の日蓮も仏と天台との如く、法華経を以て本尊とするなり」(本尊問答抄)
と御教示であり、釈尊を本尊とすることを否定され、自ら顕された曼荼羅本尊を末法正意の本尊とされたことは明らかです。
また日蓮宗等が主張するように、『真間釈迦仏供養逐状』や『四条金吾釈迦仏供養事』など、一部の信徒に与えられた数編の御書で、釈迦仏造立に触れられたものがありますが、これは当時、阿弥陀仏や大日如来を祀(まつ)る法華誹謗者が多い中、大聖人に帰依するにあたってそれらを捨て、釈尊像を造立したいと願い出た者に対して、あくまで曼荼羅本尊に導くため、一時的にその善根(ぜんごん)を称歎(しょうたん)されたものです。
そうした個々に対する御化導(ごけどう)の真意を知らず、短絡的に「仏像本尊を認められている」などと勘違いしてはなりません。
日蓮大聖人が発迹顕本(ほっしゃくけんぽん=上行菩薩の迹をはらって、御本仏たる本を顕す)」以後は、信徒に対して曼荼羅本尊を認(したた)め授与されているのであり、この史実をもっても、大聖人の正意が曼荼羅本尊であることは明白です。

法華経一部読誦

陣門流では、宗祖の御書数編を根拠に、『法華経』一部八巻二十八品読誦を宗祖が常の修行とされたと主張しています。
しかしこれらの御書は、個々の信徒の機根に応じて善導されたものであり、決して末法の衆生に対する正規の修行として示されたものではありません。
宗祖が、末法初心の行者の立場と心得を説かれた『四信五品抄』には、
「直(ただ)ちに専(もっぱ)ら此の経を持(たも)つ(乃至)一経に亘(わた)るに非(あら)ず。専ら題目を持ちて余文(よもん)を雑(まじ)へず、尚(なお)一経の読誦だにも許さず」
と、明確に法華経一部の読誦(どくじゅ)を許されず、題目の正行(しょうぎょう)妨げることを禁じられているのです。
また『月水御書』には、
「されば常の御所作には、方便品の長行(じょうごう)と寿量品の長行とを習ひ読ませ給ひ候へ」
と御教示されているのであり、陣門流の一部読誦は、宗祖が示された正しい修行に背くものです。

以上、法華宗(陣門流)について、その邪たる所以を述べました。法華宗(陣門流)は、日蓮大聖人を敬うような振りをしていても、その実態は大聖人様の教えとは似ても似つかぬ、大謗法の邪宗教でしかありません。
『涅槃経(ねはんぎょう)』には、
「邪宗の僧侶や幹部は、いかにも聖人君子のごとき人格者を装い、わずかばかりの経典を読んだりしていても、常に内心は信者から布施や寄付をしぼり取り、自分の身を長く養うことばかり考えている。袈裟(けさ)を着ているといっても、それはまるで、猟師が狙った獲物を細目でにらみながら忍び寄っていくごとく、また猫がねずみに跳びかかろうと身構えているごとく、少しでも多額の布施・寄付を搾取(さくしゅ)しようと、信者を狙っているのである」
という趣旨の経文があります。皆さま方におかれましては、間違ってもこのような邪法邪師の邪義に惑わされることなきよう、くれぐれもご注意願いたいと思います。

“正しい宗教と信仰”