昭和53年11月7日、いわゆる「お詫び登山」における幹部会の席上、学会を代表して辻副会長が、
「不用意にご謹刻申し上げた御本尊については、重ねて猊下のご指南をうけ、奉安殿にご奉納申し上げました。今後、御本尊に関しては、こうしたことも含めて、お取り扱い、手続きなどは、宗風を重んじ、一段と厳格に臨んでまいりたいと思います」
と学会の非を認め謝罪したことにより、前述のとおり院達が出され、模刻事件は一応、収束しました。ところが学会は平成2年以降、
「学会に誤りはなかった」
「模刻事件は日達上人の失態をかばって学会が罪をかぶったのだ」
などと言い始め、こともあろうに日達上人に罪をなすりつける暴挙に出たのです。学会を善導しようと、常に大慈大悲のお立場から心を砕かれていた日達上人に対して、今ごろになって「死人に口なし」とばかりに罪をなすりつけるとは、何という不知恩な者たちなのでしょうか。
辻副会長などは、この事件から10数年たってから、
「この発言(お詫び登山での謝罪)は、日達上人を守るために宗門が作成した文書を読んだだけ」
などと、実に情けない言い逃れをする始末。子供でも、これほど見苦しい言い逃れはしないでしょう。
日達上人に助けを求めた池田大作
入仏法要の騒動で学会内部が動揺し、うろたえた池田は、当時の総監・早瀬日慈御尊能化を学会本部にお迎えし、体裁(ていさい)を繕(つくろ)うために入仏法要をあらためて行っていただきました。
しかしそれでも学会内はおさまらず、困った池田は、その後も再三にわたって、開眼法要のために日達上人の学会本部へのお出ましを請(こ)い願いました。しかし日達上人は、池田からのこの願い出を絶対にお受けにはならなかったのです。
その間、52年路線における教義逸脱問題が表面化しはじめ、御宗門は善導の上から学会の邪義を厳しく追及し、池田は窮地に追い込まれました。そこで池田は、日達上人にすがって自己の保身を優先したのです。
つまり、何とか日達上人を本部にお迎えして、「板御本尊は猊下の御認可をいただいたもの」ということを広くアピールし、自分への非難をかわそうとしたのです。そこで、学会の創立記念法要に御臨席賜るという名目で、日達上人の本部へのお出ましを、しつこく懇願したのです。
日達上人は、これまで断固として開眼を断られてきたものの、やむなく池田の申し出を御承諾あそばされ、昭和52年11月7日、創価学会創立47周年記念法要の大導師を勤められるとともに、板御本尊の開眼を行われたのです。これによって学会本部安置の御本尊については、「追認」という形で猊下の御認可を賜りました。
「学会は悪くなかった」「日達上人が許可したことを忘れたので、それを学会がかばった」などというならば、池田自らが開眼法要を行ったにもかかわらず、早瀬日慈御尊能化に開眼法要を奉修していただき、さらにその上に、執拗に日達上人猊下にお出ましを願ったのか、その理由が分かりません。ぜひ納得いくように説明してほしいものです。
赤沢朝陽社長のウソ証言
学会本部安置の御本尊に関しては、以上の経過により一応は落ち着きました。
ところが翌昭和53年正月、年始の挨拶のためお目通りしていた赤沢朝陽社長から、
「多数の本尊を池田の依頼で模刻した」
との報告が日達上人になされました。驚かれた日達上人は、ただちに大宣寺御住職・管野慈雲御尊師(菅野日龍御尊能化)に調査の指示を出されたのです。その後の経過は、冒頭の管野御尊能化の手記のとおりであり、模刻本尊は追認を受けた学会本部安置以外に、何と七体もあったのです。
さて、この赤沢朝陽・赤沢猛社長。
赤沢社長は、平成5年9月30日付の聖教新聞に登場し、
「昭和49年の秋ごろに日達上人にお目通りした。日達上人は学会の本尊彫刻の件を最初から承知していて、赤沢で彫っていること、他にも数体あることを聞いているということだった」
という趣旨の証言をしました。現在の学会では、この赤沢証言を唯一の証拠として「日達上人は本尊模刻を承知していたのに忘れたのだ」と主張しているようです。
しかしながら、日達上人猊下は最晩年まで矍鑠(かくしゃく)としておられ、その記憶力は人並み以上に優れていたお方です。その猊下が、昭和49年の秋に覚えていた「御本尊に関わる大事」を、たった3、4ヶ月で忘れてしまうなどあり得ません。
日達上人は初耳だからこそ、「とんでもないことだ。誠に無礼なことである」とお怒りになられたのです。
それに、模刻本尊七体の中には、「池田大作個人が授与」された「御守本尊」を拡大して模刻したものがありました。御守本尊を板本尊として彫刻し、他人に拝ませるなどということは、日蓮正宗古来より、絶対に許されることのない行為です。それを、御法主上人猊下が承認したり黙認したりなど、絶対にあり得ません。
平成5年になって、いきなり登場した「赤沢証言」は、御宗門に模刻事件をあらためて破折されて答えにつまった学会が、窮余(きゅうよ)の策として打ち出したでっち上げ証言であり、裏付けも何もなく、信憑性はゼロです。
昭和49年4月に完成していた模刻本尊
御本尊が台座に差し込まれている部分を、通常「ほぞ」とか「あし」と呼びます。
模刻本尊七体のうち、五体の模刻本尊の「ほぞ」に、彫刻した年月日と彫刻師の名前が刻まれていました。これは、本体の板に彫刻が終わった段階で刻字するもので、そのあとで漆と金箔の工程に回します。
そのうち、「賞本門事戒壇正本堂建立昭和四十九年一月二日」という模刻本尊のほぞに「昭和四十九年四月 朝陽」とハッキリと刻まれています。
池田大作が、最初に「学会本部の御本尊を板御本尊にしたい」と願い出てきたのは、昭和49年の9月です。
しかし実は、その5ヶ月以上も前の同年4月には、すでに無許可で模刻本尊の彫刻を終えていたのです。
これは揺るぎない証拠であり、学会がいかに日達上人に罪をかぶせようとしても、模刻事件の真実は明らかなのです。