生長の家の誤りを破す 生長の家の誤りを破す

生長の家の誤りを破す


生長の家の概要

大本【創立】昭和5年3月
【創始者】谷口雅春(初代総裁)
【信仰の対象】生長の家大神(大宇宙の応現・化現)
【教典】聖典『生命の實相』その他

生長の家の沿革

生長の家(せいちょうのいえ)は、谷口雅春(たにぐち・まさはる)の「真理の書かれている言葉を読めば病が治る」等の主張によって、膨大な量の書籍を発行し、会員に購読させる、いわゆる「出版宗教」です。
また谷口雅春の思想には、宗教・哲学・心霊学・精神分析学などの教説が混ぜこぜに取り込まれていることから、「宗教のデパート」などとも呼ばれているものです。

女性との二股交際と性病

谷口雅春は、明治26年11月、兵庫県の農家に生まれました。
早稲田大学に進学したものの、女性問題を起こしたため養父母から仕送りを断たれて中退し、そして大正3年、大阪の紡績会社に勤めました。
ところが、会社の上司の姪(めい)と、色街の遊女の2人と二股交際をしたあげく、その遊女から性病を移されてしまいました。雅春は、その病気が上司の姪に移りはしないかと悩み続けたそうです(これが後に、病気治し宗教の原点となります)。しかしこの女性問題が原因で工場長と口論となり、紡績工場を退職しました。
その後、雅春は大本(当時は皇道大本。別項参照)が発行する雑誌に心を引かれ、大正7年に大本に入信しました。そして翌年には教団機関誌の編集員となり、大正9年には同じく信者の江守輝子と結婚しました。
そうした中、大正10年に「第一次大本事件(大本の項参照)」が発生。しばらくは出口王仁三郎の口述筆記なども担当していましたが、次第に大本の信仰に疑問を感じるようになり、ついに大正11年、雅春は大本教団を去りました。

『生長の家』の発刊・立教

某宗教思想家の著書を読んで、「不幸の存在を意識の圏外に追い出すことが、幸福になる道である」などという心の法則なるものを発見したという雅春は、昭和4年36歳の時、今度は神がかりとなり、「物質はない、心もない、実相がある」というような声がどこからか聞こえてきて、雅春は悟(さと)りに達したのだそうです。
そして翌年、自分が悟ったという内容を発表するために、月刊誌『生長の家』を創刊しました。教団では、この雑誌創刊日を立教の日としています。
その雑誌に「購読したら病気が治った」などの体験が掲載されると、購読者が増え始めました。また雅春は雑誌に「万教帰一の神示」など、自らの思想の核となる説を相次いで掲載し、さらにその内容を加筆・整理して、昭和7年から『生命の實相(じっそう)』と題して順次刊行し始めました。
昭和9年には信者の出資で、出版会社「光明思想普及会」を設立。昭和15年には宗教結社「教化団体 生長の家」を設立しました。

その後の展開

太平洋戦争中、雅春は「天皇中心の国家社会の実現こそ神の意志である」などと主張し、軍部による領土拡大を正当化し、軍部に積極的に協力。天皇の元首化や靖国神社の国家護持を提唱していました。
しかし昭和22年、GHQから雅春は戦争犯罪者とされ、公職追放処分となりました。これによって雅春は教主を辞任し、娘婿の谷口清超が第2代に就任しました。
昭和27年、宗教法人「生長の家教団」を設立し、昭和32年には「生長の家」と改称し、雅春が総裁となり、清超が副総裁となりました。
昭和50年には、生長の家の総本山として、長崎に「龍宮住吉本宮(りゅうぐうすみよしほんぐう)」を建設しました。教団では、長崎の総本山を祭祀(さいし)の中心地とし、東京本部は宗務および出版時・事務の中心地としています。

生長の家の教義の概要

本尊と教典

総本山である龍宮住吉本宮には「住吉大神(神体として両刃の剣)」を祀(まつ)り、道場や集会所では「生命の実相」「実相」などと書かれた額や掛け軸を掲げています。
しかし会員に対しては「実相とは唯一の真理であり、あらゆる宗教の本尊の奥にあるもの」としていて、各自の先祖伝来の神棚や仏壇をそのまま祀ることを認めています。
教典には『生命の實相』などがあり、そのほかに『白鳩』『光の泉』『理想の世界』などが信者用の機関誌として毎月発行されています。

教義について

この教団は「デパート宗教」と呼ばれるだけあって、日本の神話、仏教、キリスト教などの教義に加え、西洋哲学やら日本の思想家の論なども混ぜこぜにして教義を形成しています。
教義の中心は「唯心実相哲学」なる教祖の教えで、
■タテの真理
すべての人間が神の子であり、無限の生命・智恵・愛等のすべての善徳に満ちた久遠不滅(くおんふめつ)の存在である。これが人間の真実の相であるとする思想。
■ヨコの真理
心の法則のこと。現実世界はただ心の現すところであり、心によって自由自在に貧・富・健康・幸福等、何でも現すことができるという。
例えば病気にかかっても、「人間本来病気無し、病気は心のかげ」ということで、実相の完全さを信じるならば、すべての病は消え、完全な至福の世界が顕(あらわ)れるなどという原理。
というような教えです。
また「万教帰一」と言い、「すべての宗教は唯一の大宇宙(神)から発したものであり、さまざまな宗教や真理は、あくまでも時代性・地域性に照らして説かれたものである」などと主張しています。

信者の修行

教団では、「生命の実相」の真理を体得するためとして、
(1)毎日、必ず『生命の實相』などの教典を読む。
(2)先祖供養のために、聖経と称する『甘露(かんろ)の法雨』『天使の言葉』『続々甘露の法雨』を各々の神前・仏前で読誦(どくじゅ)する。
(3)毎日、「神想観(しんそうかん=「物質はない、肉体はない、人間は神の命そのものであり、神の子である」という人間の実相なるものを実感するための瞑想法らしきもの)」を実行する。

という3つの修行を信者に課しています。そしてさらに「人類を光明化(こうみょうか)」するという「布教活動」を奨励しています。

生長の家が邪宗教である理由

本を読めば病気が治る?

この教団は、病気治しが教義の中心といっても過言ではありません。出版物の多くは、病気が治ったという御利益(ごりやく)話で大にぎわいで、「この本(生命の実相)を読んだだけで病気が治る」と、ハッキリと書かれています。
これは谷口雅春自身が「読めば治る」と言ったわけで、その根拠は、
「人間は神の子である。神は病気など造らない。肉体は本来無いものだから、病気も無い。もしあると思うならば、それは妄想である。それが病気を生み、そして薬は病気があるとする悪念の所産(しょさん)である。病気は無い、肉体も無いと強く念ずるところの神想観が病気を治す」
などというものです。これを教団では「メタフィジカル・ヒーリング(超物質的療法)」などと呼んでいます。
馬鹿言ってもらっては困ります。肉体は物質の集まりとして現実に確かに存在するものでありますし、物質である以上は、そこに時として傷(いた)みが生ずるのも当たり前です。病気になったら医者にかかればいいし、薬も飲めばいいのです。病気を自覚し、それを治そうと努める意志と自然治癒力があって、そこに医者の治療が加わるからこそ、病気は治るのです。
そもそも「病気は無いんだと想えば病気は治る」などというのは、「痛いの痛いの飛んでけー!」という、一昔前の親が子供にやった暗示と同じレベルのものであり、単なる思い込みのオマジナイです。こんな妄想が教義の中核なのですから、この教団の底が知れるというものです。

唯心(ゆいしん)偏重主義の危険

教団では「現実世界はただ心の現すところであり、心によって自由自在に貧・富・健康・幸福等、何でも現すことができる」などと主張し、唯心に大きく偏(かたよ)った教えを説いています。
これは現実から目をそむけ、「悪事や災難は単なる妄想に過ぎない」と虚と実を逆転させ、逆におかしな妄想の世界をつくりだし、場合によっては精神に異常をきたしかねない、大変危険な教えです。
現実の世界をあるがままに捉(とら)えなければ、人間はマトモに生きていくことはできません。この教団のような「心だけを中心としてすべての現象を理解させる」偏った教えは、とんでもない邪説です。しかも、
「人に痛いことを言ふ人、キューと突く様な辛辣(しんらつ)なことを言うやうな心の傾向のある人は、キューと突かれる、すなわち注射をされたりしなければならぬ病気にかかるわけであります」 などという馬鹿げた唯心論です。幼稚すぎて話になりません。

要するに本を売って金儲け

医学者の中村古峡(なかむら・こきょう)氏は、雅春のことを「誇大妄想症」と断じていますが、その氏の著である『迷信に陥(おちい)るまで』には、
「或(あ)る有力な新聞記者が、谷口雅春にぶつかって『果(はた)して君の本さえ読めば、君が大袈裟(おおげさ)に吹聴(ふいちょう)しているごとく、病気が実際になほるのかい』と問うたところ、彼は頭を掻(か)きながら『いや、あれは単に本を売り出すための方便に過ぎない。本を多く売るためには、先(ま)ず多くの人々を集めねばならぬ。多くの人々を集めるためには、何等(なんら)かの方便を用いなければならぬ』と答えたさうな」
と記されています。
要するに谷口雅春は、本を売るために「読めば病気が治る」とデタラメな宣伝しただけのことで、実際にはそんなことはないと、自身が認めているのです。つまり生長の家という教団は、単なる本の出版・販売を目的とする「営利団体」に過ぎないのです。

「万教帰一」の迷妄(めいもう)

教団では「万教帰一」といって、「すべての宗教は唯一の大宇宙(神)から発したものであり、さまざまな宗教や真理は、あくまでも時代性・地域性に照らして説かれたものである」などと主張し、「実相とは唯一の真理であり、あらゆる宗教の本尊の奥にあるもの」という妄説を吐いています。
これは、谷口雅春の独断と我見(がけん)に過ぎません。例えば仏教とキリスト教では、出発点も、修行法も、さらにはその最終目的とするところも、すべてがまったく違います。
これを「あらゆる宗教の根元は一つだ」などというのは、実に「デパート宗教」らしい無知であり、迷妄であると言えます。世の人々が宗教について何も知らないのをよいことに、あまりデタラメなことを吹聴してもらっては困ります。

以上、ごく簡単ではありますが、生長の家の教義についてその邪宗教である理由を述べました。皆さま方におかれましては、このような邪法邪師の邪義に惑わされることがありませんよう、くれぐれもご注意願いたいと思います。

“正しい宗教と信仰”