日興遺戒置文の対象は御僧侶
日興遺戒置文の末文には、
「万年救護(まんねんくご)の為に二十六箇条を置く。後代の学侶敢(あえ)て疑惑を生じること勿(なか)れ。此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有るべからず」
とあります。
日興遺戒置文は「後代の学侶」、すなわち後代の学問する御僧侶に与えられたものであり、在家信徒に与えられたものではありません。
したがって、単なる一般俗人でしかない浅井が日興遺戒置文を楯にとって、貫主を用いるだの用いないだのと主張すること自体が、日興上人の仰せに違背する師敵対の行為です。浅井には、そもそもそんなことを主張する資格などないのです。
貫主の己義など有り得ない
総本山第五十九世・日亨上人は『富士日興上人詳伝』に、
「時代はいかように進展しても、無信・無行・無学の者がにわかに無上位(※御法主上人)に昇るべき時代はおそらくあるまい。一分の信あり、一分の学ある者が、なんで仏法の大義を犯して勝手な言動をなそうや。(中略)いかに考えても、偶然に、まれに起こるべき不祥事であるとしか思えぬ」
と仰せです。
すなわちこの日興遺戒置文の条文は、例えば第二十六世・日寛上人以前の、まだ本宗教学が整理体系化されておらなかった上古の時代などに、ごくまれに起こりうる事態に対する「万一の備え」であって、日常の通例では有り得ず、もちろん現在までそのような事例は発生したことがありません。
浅井昭衛・顕正会にしても創価学会にしても、日蓮正宗から破門された異流儀の者たちは判で押したようにこの条文をわめきたてますが、所詮は自己を正当化したいがために「貫主が己義を構えて不当にも我われを破門した」と騒いでいるだけのことです。
この次の条文
日興遺戒置文の次の条文には、
「衆義たりと雖も、仏法に相違あらば貫主之(これ)を璀(くじ)くべき事」
とあります。
「時の貫主たりと雖も~」の条文とこの次の条文は一対をなすものですが、顕正会も創価学会も、自分たちの主張に都合よく解釈できる先の条文だけをことさらに取り上げ、こちらの条文については知らん顔です。
先の条文では、弟子分(注:在家信徒ではない)に許されているのはあくまでも「用いない」ところまでであり、弟子分が貫主を「璀(くじ)く」ことは許されていません。
それに対してこの条文では、師である貫主(御法主上人)は、弟子たちの総意であっても仏法の上で間違っているならば、これを明確に璀くことができるとされています。
この「用いない」と「璀く」には天地の差異があるのであり、御法主上人に師敵対して「璀かれた」浅井ごときが何を言っても空虚な主張です。
何をもって「己義」と判断するのか
浅井の言う「日蓮大聖人の御金言が正邪判断の基準」なのであれば、これは「御書根本」「大聖人直結」などと主張している創価学会となんら変わりありません。
それでは創価学会も身延日蓮宗その他の輩も、己義か否かを判定できることになってしまいますが、それでいいのでしょうか?
御法主上人猊下は「僧宝」
そもそも、貫主の御教示が正義(しょうぎ)か己義か、日興遺戒置文にある「極理を師伝」されていない在家信徒が判断できるなどと考えること自体が大間違いです。
また日蓮大聖人が『真言見聞』に、
「謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり」
と仰せのとおり、仏法僧の三宝は一体である。浅井のように僧宝である御法主上人に師敵対しながら、法宝である本門戒壇の大御本尊に信を取ることなどできないのです。