唯授一人の血脈相承は命脈中の命脈
「宗祖日蓮大聖人の御内証(ごないしょう)を二祖日興上人を経て、代々の御法主上人猊下(ごほっすしょうにんげいか)に法水瀉瓶(ほっすいしゃびょう)して末法万年の未来へ誤りなく伝承する金口嫡々(こんくちゃくちゃく)・唯授一人(ゆいじゅいちにん)の血脈相承(けちみゃくそうじょう)。
これこそ、戒壇(かいだん)の大御本尊とともに、日蓮正宗の教義、信仰の根本中の根本であり、命脈中の命脈である。このことは、日蓮正宗の信徒であるならば、だれでも知っていることである」
(池田大作『創価新報』昭和58年4月20日付)
御法主上人に随順
「血脈相承の御法主上人に随順(ずいじゅん)しゆくことこそ、僧俗の正しいあり方である。この一点を誤れば、すべてが狂ってくる」
(池田大作『広布と人生を語る』第3巻32頁)
血脈否定は狂気の沙汰
「日顕上人は、54年7月22日の日達上人の御遷化(ごせんげ)にともない、第六十七世法主・管長に就任。以来一年半にわたって、彼ら(正信会)も日顕上人を法主と仰いでいたのである。
また、彼ら自身、かっては法主の地位や血脈相承についてうんぬんすることは甚(はなは)だしい謗法である、と明言していた。 こうした経過からも明らかなように、彼らの訴えは要するに、自分達の思い通りにならない日顕上人を法主(ほっす)の座から追い落とそうとした、タメにするものに他ならない。
いかにタメにするものとはいえ、御法主上人の血脈を否定し、あまつさえ裁判に訴えるなど、日蓮正宗の仏飯をはんだ者には、およそ考えられない所業であり、狂気の沙汰としか言いようがない」
(池田大作『創価新報』昭和60年12月4日付)
仏法の正しき流れ
「ご存知のとおり、私どもは日蓮大聖人の仏法を奉ずる信徒である。その大聖人の仏法は、第二祖日興上人、第三祖日目上人、第四祖日道上人、および御歴代上人、そして現在は第六十七世御法主であられる日顕上人猊下まで、法灯連綿と血脈相承されている。ゆえに日顕上人猊下の御指南を仰ぐべきなのである。この一貫した仏法の正しき流れを、いささかなりともたがえてはならない」
(池田大作『広布と人生を語る』第3巻249頁)
法水写瓶の血脈相承にのっとった信心
「日蓮宗身延派にあっても、南無妙法蓮華経の題目を唱えている。御書もある。経文も、法華経の方便品、寿量品等を読経している。また、もと正宗の僧侶であった『正信会』も、御法主上人の認(したた)められた御本尊を拝しているし、読む経文も唱える題目も、われわれと同じである。
外見から見ればわれわれと同じように見えるが、それらには唯授一人(ゆいじゅいちにん)・法水写瓶(ほっすいしゃびょう)の血脈(けちみゃく)がない。法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つとも無益(むやく)であり、功徳はないのである」
(池田大作『広布と人生を語る』第8巻228頁)
御法主上人猊下は遣使還告
「御法主上人猊下様は遣使還告(けんしげんごう)で、日蓮大聖人様と拝し奉るのです。このことは信心のうえからはっきりしたものです」
(池田大作『巻頭言・講義集』第3巻184頁)
本門戒壇の大御本尊は日蓮大聖人
「大聖人様の出世の御本懐として、万人から仰がれる大御本尊であらせられる。われわれが登山して、大御本尊を拝することは、そのまま日蓮大聖人様にお目通りすることであり、偉大なる功徳を享受できることは言うまでもない」
(大百蓮華昭和38年10月号)
大御本尊が信心の根本
「大聖人の出生の本懐である一閻浮提総与の大御本尊が信心の根本であることは、これからも 少しも変わらない。純真な『信心』の一念で唱えた題目は、即座に大御本尊に通じていく」
(聖教新聞・平成5年9月19日付 ※創価学会破門後の指導)