無責任極まりない親鸞
親鸞の門弟であった唯円の著述に『歎異抄(たんにしょう)』というものがあります。これは唯円が直接、親鸞から聞いた言葉を書き記したもので、そこには親鸞の言葉として、
「念仏はまことに浄土に生るゝたね(種)にてやはんべるらん、また地獄に堕(お)つる業(ごう)にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり。たとひ法然聖人に賺(すか)されまゐ(い)らせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候」
などと書かれています。
すなわち、「念仏が浄土に生まれる種であるのか、あるいは地獄に堕ちる業なのか、自分には分からない。もし法然にだまされて地獄に堕ちたとしても、後悔はしない」ということです。
浄土真宗の開祖という立場でありながら、「念仏で浄土に行けるのかどうか知らない」というのですから、何とも無責任極まりないことです。このような者に引きずられて、いっしょに地獄に堕ちる人々こそ哀れです。
浄土三部経は方便の教え
この第4章の総論で、『法華経』が釈尊の本意であり、これこそが真実の教えであることを、経文にしたがって述べました。
すなわち、法華経の序分にあたる開経の『無量義経』には、
「四十余年には未(いま)だ真実を顕(あらわ)さず」
と説かれ、これまで42年間にわたって説かれた膨大な経典は、真実を説いたものではないと斬り捨てました。また『法華経』の方便品(ほうべんぽん)には、
「唯(ただ)一乗の法のみ有り 二無く亦(また)三無し」
「正直に方便を捨てて 但(ただ)無上道(むじょうどう=最高の教え)を説く」
と説かれ、さらに『法華経』の法師品(ほっしほん)には、
「我が所説の諸経 而(しか)も此(こ)の経の中に於いて 法華最も第一なり」
と説かれ、法華経こそが真実の教えであると宣言されているのです。
浄土宗が依(よ)るところの『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』は、この42年間に説かれた方便の教えであり、真実ではありません。
しかも、善導は「千中無一」といい、法然にいたっては「捨閉閣抛」として、唯一真実の教えである法華経を誹謗(ひぼう)しており、これは釈尊の本意に背(そむ)くものです。したがってこの念仏を信仰することは、無間(むけん)地獄の大悪業となるのです。『法華経』には、
「この経を信ぜずに毀謗(きぼう)すれば、一切世間の仏種(ぶっしゅ)を断じ阿鼻地獄(あびじごく)に入る」
と説かれています。法華経を誹謗することは重罪中の重罪なのです。
阿弥陀仏の本願にも背く
浄土宗が依(よ)るところの『無量寿経』に説かれる、阿弥陀仏の「四十八願」の第十八願には、
「もしわれ仏をえたらむに、十方の衆生至心に信楽(しんぎょう)して我が国に生ぜむと欲して、乃至(ないし)十念せむに、若(も)し生ぜずば正覚(しょうかく)をとらじ。唯(ただ)五逆と誹謗正法(ひぼうしょうぼう)とを除く」
と説かれています。
つまり阿弥陀仏自身が、「正法である『法華経』を謗(そし)る者は救えない」と断言しているのです。そもそも阿弥陀仏は、極楽世界を自身の国土として「法華経を説く仏」であり、その法華経を誹謗する者が救われないのは当然のことです。
したがって念仏宗の教えは、自分たちの経典にすら背いているのであり、往生は不可能と知るべきです。
娑婆世界に無縁の阿弥陀仏
阿弥陀仏という仏は、私たちの住む現実の娑婆世界(しゃばせかい)とは無縁の仏です。
その娑婆世界に現実に出現してすべての人々を救っていく「真実の仏」である釈尊に背き、極楽浄土に住むという仏を拝むことは「正しい教えである法華経を謗(そし)る」ことになるのですから、とんでもない罪障を積むことになってしまうのです。
厭世思想と現実逃避
浄土宗では、「念仏を唱えれば、阿弥陀仏の本願力によって臨終の後、西方極楽浄土に往生できる」と説いています。
しかしこのような教えは、私たちが生きている現実世界を穢土(えど)といって嫌う厭世(えんせい)思想や、今世では決して成仏できないというあきらめや現実逃避の思想を生み出す元となります。またこれは、浄土宗の教えが、現実にさまざまな苦悩にあえぐ人々を「救う力がない」ことの裏返しです。だから今生を捨てるのです。
真実の仏法は、後生の成仏はもちろんのこと、今生きている現実世界で苦悩から人々を救い、凡夫そのままに即身成仏の大利益を授けるものです。それを最初から捨てている浄土宗の教えは、真実の仏法ではありません。
難行道と易行道について
インドの竜樹(りゅうじゅ)菩薩は、『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』において「難行道」と「易行道」を説きましたが、これは法華経以前の経教(きょうぎょう)を難易の二道に分けたもので、法華経は含まれませんでした。
ところが浄土宗は、竜樹の真意をねじ曲げ、法華経まで難行道に分類し、末法の人々の機根に適(かな)わない教えであると捨ててしまったのです。これは、浄土教の先達(せんだつ)である竜樹の教えをも裏切った行為と言えるでしょう。
善導の臨終の相
仏法では、その人の死後の成仏・不成仏は「臨終(りんじゅう)の相に顕(あらわ)れる」と説いています。
臨終の際に、悶絶(もんぜつ)して苦しみもがいて死んだり、遺体がどす黒く変色したり、遺体が硬く硬直したり、あるいは腐敗して悪臭を放つなどは、すべて堕地獄の相であると説かれているのです。
中国念仏宗の善導は、極楽浄土がとても恋しく、「死んだら必ず浄土に行けるというが、自分は生きているうちに行きたい」と念願し、柳の木に登って飛び降りたものの死ぬことができず、腰の骨を強打して七日七夜も悶絶して、狂乱して苦しみ抜いたあげくに死にました。
これは、経文に説かれる堕地獄の相そのままです。念仏宗の偉い坊さんですらこの有り様なのですから、それに従う信者も推(お)して知るべしであります。
以上、浄土真宗について、その邪たる所以を述べました。念仏は、真実の仏法とはかけ離れた邪宗に他なりません。
『涅槃経(ねはんぎょう)』には、
「邪宗の僧侶や幹部は、いかにも聖人君子のごとき人格者を装い、わずかばかりの経典を読んだりしていても、常に内心は信者から布施や寄付をしぼり取り、自分の身を長く養うことばかり考えている。袈裟(けさ)を着ているといっても、それはまるで、猟師が狙った獲物を細目でにらみながら忍び寄っていくごとく、また猫がねずみに跳びかかろうと身構えているごとく、少しでも多額の布施・寄付を搾取(さくしゅ)しようと、信者を狙っているのである」
という趣旨の経文があります。浄土真宗も当然、これに該当します。
皆さま方におかれましては、間違ってもこのような邪法邪師の邪義に惑わされることなきよう、くれぐれもご注意願いたいと思います。