習い損ないの「信徒崩れ」浅井
そもそも浅井は、血脈付法の日達上人の御内証を即宗祖日蓮大聖人の御内証と拝信するという、日蓮大聖人の仏法の基本的信心が薄弱であり、そのために日達上人の深意を拝するどころか御指南に信順すらできず、自己の我意我見を先とした、田中智学流の国立戒壇の邪義を申し狂い、ついには叛逆(はんぎゃく)してしまった習い損ないの「信徒崩れ」に過ぎません。
日蓮大聖人が『新池御書』に、
「末代の衆生は法門を少分こゝろえ、僧をあなずり、法をいるがせにして悪道におつべしと説き給へり。法をこゝろえたるしるしには、僧を敬い、法をあがめ、仏を供養すべし」
と仰せであるにもかかわらず、自身の浅はかな我意我見をもって、しかもあろうことか血脈付法の日達上人をあなずる浅井は、悪道ここに極まれりです。
創価学会の「大聖人直結」「御書根本」と同じ
浅井は、
「大聖人様が教えて下さった」
「ここに大聖人様より発言の資格を給わり」
「本門戒壇の御聖意は、三大秘法抄・御付属状をよくよく拝し、さらに日寛上人の御指南を拝すれば明々了々」
などとうそぶいていますが、これらは創価学会が主張している「大聖人直結」「御書根本」と同じです。
顕正会にせよ創価学会にせよ、日蓮正宗を破門された異流儀新興宗教は、唯授一人の血脈相承をないがしろにし、否定し、そんなものはなくても大聖人の御聖意は分かるのだということにしなければ、自分たちの立つ瀬がない。だから結局同じようなことを主張する以外にないのです。
しかし、日蓮大聖人が『一大聖教大意』に、
「此の経は相伝に有らざれば知り難し」
と仰せになり、また第二祖・日興上人が『日興遺誡置文』に、
「極理を師伝して」
と仰せのとおり、唯授一人の相伝がなければ日蓮大聖人の仏法は有り得ません。
日淳上人の御指南
浅井が「英邁な御法主」と仰ぐ第六十五世・日淳上人は、
「申す迄もなく御相伝となりますれば、直接御指南の金口嫡々(こんくちゃくちゃく)の御相承や宗門の上の御教示等重々あらせられると拝しますが、それは御法主上人としての大事大切でありまして、一般の僧侶や信徒としては御法主上人に随順し奉ることによって、自ら受けることができるのであります」
と、血脈相伝の御法主上人に信伏随順しなければならないと仰せであり、浅井のごときは噴飯ものの増上慢です。
また日淳上人はさらに、
「此れ(公開されている御相伝書)も以って全部であると速断してはならないのであります」
と仰せであり、浅井の言う「本門戒壇の御聖意は、三大秘法抄・御付属状をよくよく拝し、さらに日寛上人の御指南を拝すれば明々了々」などという主張が誤りであることを御指南あそばされています。
師伝曖昧(あいまい)にして法統明らかならざる者
日淳上人は『日興遺誡置文』の「御抄を心肝に染め極理を師伝して」について、
「御書を心肝に染めざれば聖祖の御霊格に親炙(しんしゃ)し奉るを得ず。而(しか)して極理を師伝せざれば我見に堕するを免れず」
と、血脈相伝に依らなければ我見に堕するとはっきりと仰せです。さらに、
「然(しか)るに古来聖祖の門家に於て御書を手にすることを知って、極理の師伝を知らず、これを忽(ゆる)がせにするもののみを見る(中略)然るに聖祖門下に於て如何(いか)にこの二慢(増上慢・我慢)の多きことか」
と、身延日蓮宗等は無論、顕正会・創価学会のごとき極理師伝の血脈を蔑ろにする者たちの多きことを嘆かれ、さらには、
「御書を手にして一知半解(いっちはんげ)我れ既に得たり師たりといって慢執天よりも高きものあり」
と仰せです。まさしく浅井昭衛や池田大作の増上慢の姿そのものではありませんか。
そして日淳上人はこう仰せです。
「此輩(このやから)仏を破り法を濁す幾許(いくばく)なるを知らず、これこれを仏法の怨敵といふ。求道者は師を択(えら)ぶに、師伝曖昧にして法統明らかならざるものは、悉(ことごと)く此類(このたぐい)として斥(しりぞ)けざるべからず」
浅井はまさしく仏法の怨敵であり、大聖人・日興上人から連綿と続く血脈相伝とは縁もゆかりもない「師伝曖昧にして法統明らかならざる」者であり、こういう者を師としてはならないのです。浅井は、日蓮大聖人の仏法とは無関係の「似非(えせ)仏法者」に他なりません。