『大梵天王問仏決疑経』について
禅宗は、『大梵天王問仏決疑経(だいぼんてんのうもんぶつけつぎきょう)』という経典を依経(えきょう=よりどころの経典)としています。
しかしこの経は、中国は唐の時代の末、慧炬(えこ)の『宝林伝』のなかに記されているのみで、大蔵経の古録である『貞元釈教録』『開元釈教録』にもその名称はありません。
このことからも『大梵天王問仏決疑経』は古来より、偽経(ぎきょう=後世のニセモノの経典)とされているのです。
このような偽経をよりどころとする禅宗は、仏教宗派として信用に値しません。もともとがウソ・偽(いつわ)りから始まっている宗派なのです。
「拈華微笑」も作り話
『大梵天王問仏決疑経』が偽経なのですから、そこに説かれている「拈華微笑(ねんげみしょう)」という、釈尊が睡蓮(すいれん)の花を拈(ひね)って迦葉(かしょう)尊者が一人微笑んだ……などという話も当然、作り話です。
そもそも史実として、釈尊が涅槃(ねはん)の時、迦葉尊者はその場にはいなかったのですから、微笑みようがありません。こんなウソの説話が宗派の根本に関わるよりどころなのですから、禅宗の存在そのものが根本的に論外なのです。
釈尊が、「付法蔵(ふほうぞう)の第一」として、迦葉尊者に小乗教の法を付嘱(ふぞく)されたことは事実ですが、それは禅宗の言う「経典に真実はなく、迦葉尊者一人に以心伝心で真実の法を伝えた」などという、荒唐無稽(こうとうむけい)なものではありません。
教外別伝・不立文字
そういうことで、『大梵天王問仏決疑経』に説かれるという
「正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門有り。不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべちでん)にして、摩訶迦葉に附属(ふぞく)す」
などというのも、作り話です。
そもそも「不立文字」と言うからには、経典は用いないはずなのに、「教外別伝」の根拠を『大梵天王問仏決疑経』の経文に依(よ)るとはどういうことなのでしょうか。言ってることとやってることが食い違ってます。
釈尊の一代聖教(いちだいしょうぎょう)を誹謗(ひぼう)し、経典を捨て去り、「教外別伝・不立文字」などとする禅宗は、『涅槃経』の、
「若(も)し仏の所説に随(したが)わざる者あらば、是(こ)れ魔の眷属(けんぞく)なり」
と説かれるとおり、天魔の所業となるのです。
日蓮大聖人は『早勝問答』に、
「問ふ、禅天魔の故(ゆえ)、如何(いかん)。答ふ、一義に云はく、仏経に依(よ)らざる故なり。一義に云はく、一代聖教(いちだいしょうぎょう)を誹謗(ひぼう)する故なり」
と御教示されています。
「直指人心・見性成仏」の増上慢
禅宗では、「直指人心(じきしじんしん)・見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」などといい、教経を用いず、坐禅によって見る自己の本性が仏性であり、仏そのものであるなどとしています。
確かにすべての人々は、理の上において仏界を具(そな)えてはいますが、それは実の仏ではありません。
貪(とん=むさぼり)・愼(じん=いかり)・痴(ち=おろか)の三毒強盛(さんどくごうじょう)である私たち凡夫の心は、しょせんは迷いの心であって、その心をいかに見つめても、仏心を観ずることなどできません。釈尊は『涅槃経』に、
「願って心の師とは作(な)るとも心を師とせざれ」
と説かれ、「人の心は迷いの心であって、その心を師匠とすべきではない」と戒(いまし)められているのです。
完全無欠の仏を蔑(ないがし)ろにし、「是心即仏(ぜしんそくぶつ)・即身是仏(そくしんぜぶつ)」などとして、「我が心を観ずることによって仏になる」などという禅宗の教えは、増上慢(ぞうじょうまん=慢心の極地)なのです。

以上、曹洞宗について、その邪たる所以を述べました。禅宗は、真実の仏法とはかけ離れた邪宗に他なりません。『涅槃経(ねはんぎょう)』には、
「邪宗の僧侶や幹部は、いかにも聖人君子のごとき人格者を装い、わずかばかりの経典を読んだりしていても、常に内心は信者から布施や寄付をしぼり取り、自分の身を長く養うことばかり考えている。袈裟(けさ)を着ているといっても、それはまるで、猟師が狙った獲物を細目でにらみながら忍び寄っていくごとく、また猫がねずみに跳びかかろうと身構えているごとく、少しでも多額の布施・寄付を搾取(さくしゅ)しようと、信者を狙っているのである」
という趣旨の経文があります。曹洞宗も当然、これに該当します。
皆さま方におかれましては、間違ってもこのような邪法邪師の邪義に惑わされることなきよう、くれぐれもご注意願いたいと思います。