真言宗の誤りを破す 真言宗の誤りを破す

真言宗の誤りを破す


真言宗の概要

【真言系の流れ】
中国は唐の時代、善無畏(ぜんむい)は、『大日経』をインドから中国に伝えようとしました。
しかしそのころ、すでに『法華経』が広まっていたため、これでは大日経が弘まらないと考えた善無畏は、天台宗の僧であった一行(いちぎょう)に、本来、大日経にはない法華経の教理を取り入れた『大日経疏(だいにちきょうしょ)』を著させました。
これによって善無畏は、「大日経は法華経よりも高い教えである」と説き、大日経を弘めました。これが真言系の起源です。
そしてその後、金剛智(こんごうち)が『金剛頂経』を中国に伝え、その法を不空(ふくう)へと伝受しました。その不空から弟子の恵果(けいか)に教えが受け継がれ、そして弘法大師空海に伝受されました。
ちなみに昭和21年、真言宗各派は独立し、「高野山真言宗(古義)」「東寺真言宗(古義)」「真言宗智山派(新義)」「真言宗豊山派(新義)」等に分かれていますが、ここではその中でも最大の、高野山真言宗を代表として取り上げます。

知恩院【宗祖】弘法大師空海
【本尊】大日如来
【経典】『大日経』『金剛頂経』『蘇悉地経』
【総本山】金剛峯寺

真言宗の沿革

空海真言宗は、大日如来を根本仏として、『大日経』『金剛頂経』『蘇悉地経(そしっぢきょう)』の「真言三部秘経」をよりどころの経典とする宗派です。
空海は、15歳の時に京に上り、18歳で儒教を学びましたが満足せず仏教を学び、儒教・道教に比して仏教が最も優れていると主張しました。
延暦23年(804年)、空海31歳の時に唐に渡り、翌年には恵果(けいか)に師事して真言密教を学びました。そして「遍照金剛(へんじょうこんごう)」の号を授かり、真言密教の第八祖となりました。そして恵果の死去にともない、空海は多くの経論・曼陀羅・法具などを持って日本に帰国しました。
帰国後、空海36歳の時に、嵯峨(さが)天皇の信任を得て真言密教を弘め、真言宗の高揚に努めました。43歳の時には高野山を修行の道場と定め、朝廷から寺領をもらって金剛峯寺を建立し、さらに弘仁14年(832年)には平安京に教王護国寺(東寺)を与えられ、以来、ここを真言宗の根本道場としました。
承和2年(835年)に空海は死去し、その後、延喜21年(921年)には、醍醐天皇によって弘法大師号が贈られています。

真言宗の教義の概要

真言宗では、依経(えきょう=よりどころの経典)である『金剛頂経』と『大日経』によって、「金剛界(大日如来の智慧)」と「胎蔵界(大日如来の慈悲)」の2つの世界観を説いています。
仏菩薩の中で大日如来こそが最高の仏であり、この世界観を図示したものが、金剛界曼陀羅(まんだら)と胎蔵界曼陀羅です。 そして真言宗では、大日如来と心身ともに一体となって修行すれば、この身このまま仏になるという「我即大日」の即身成仏を説いています。

本尊

真言宗では元来、大日如来を根本仏としていますが、派や末寺によって多少異なり、大日如来を主体として、他に金剛界曼陀羅や胎蔵界曼陀羅、また曼陀羅に登場する仏菩薩などの諸尊を本尊としている場合もあります。
これら諸尊は大日如来より分出されるのであり、諸尊を本尊としても、それは大日如来を本尊とするのと同じなのだそうです。

所依(しょえ)の経典

真言宗は、『大日経』『金剛頂経』『蘇悉地経』の三部秘経、またはこれに『瑜祗経(ゆぎきょう)』『要略念誦経』を加えた五部秘経を根本経典としています。

顕密二教判

顕密二教判(けんみつにきょうはん)とは、空海が『弁顕密二教論』で説いた教義で、顕教と密教の勝劣を判じたものです。以下、簡単に概要を記します。

顕教……歴史上の釈尊によって説かれた随他意(ずいたい)・方便の教え
密教……大日如来が説いた随自意(ずいじい)の真実の教え

顕教……修行について説くが、悟りの境涯(きょうがい)を説くことができない教え
密教……悟りの境涯を説いた教え

顕教……生まれ変わり死に変わり、長い間修行しないと成仏できない教え
密教……即身成仏の教え

以上の違いによって、空海は「顕劣密勝(顕教は劣り、密教が勝れている)」と主張しました。

十住心判

十住心判(じゅうじゅうしんぱん)とは、空海が『十住心論』で説いたもので、真言行者の住心(宗教意識)を10種の段階にて示し、同時に密教・顕教を含めて他の宗教と比較したものです。
詳細は略しますが、この中で空海は、天台法華宗(法華経)を8番目に置き、その上の9番目に華厳宗(華厳経)を配し、最高位の10番目に真言宗(大日経)を配しました。 つまり、『法華経』は『華厳経』よりも劣る「三重下劣の経」「第三の戯論(けろん)」であるとし、真言宗を最高位としているのです。
さらに空海は、法華経の釈尊を「いまだ煩悩(ぼんのう)を断ち切らない迷いの位」と蔑(さげす)み、大日経の大日如来は「悟れる仏である」としています。

理同事勝(りどうじしょう)

【理同】
真言宗では、『大日経』の「心の実相」「我一切本初(がいっさいほんじょ)」「大那羅延力」と、『法華経』の「一念三千」「久遠実成(くおんじつじょう)」「二乗作仏(にじょうさぶつ)」は同じ法理であるとしています。
【事勝】
その上で、法華経には「意密(いみつ)」のみが説かれ、印と真言(呪文)の「身密(しんみつ)」と「口密(くみつ)」が示されていないので、事相においては三密(身口意)を完備した大日経が勝れていると説いています。

真言宗が邪宗教である理由

大日如来は架空の仏

空海は、釈尊を「大日如来に比べれば無明の辺域(迷いの位)」と蔑み、大日如来は「悟れる仏である」としています。
しかし大日如来は、釈尊によって説かれた単なる法身仏(ほっしんぶつ)であり、理論上で説かれた架空の仏でしかありません。
日蓮大聖人は『真言天台勝劣事』に、
「釈迦如来より外(ほか)に大日如来 閻浮堤(えんぶだい)に於て八相成道(はっそうじょうどう)して大日経を説けるか」
とお示しであり、また『祈祷抄』に、
「大日如来は何(いか)なる人を父母として、何なる国に出(い)で、大日経を説き給いけるやらん」
とお示しのとおり、仏は必ず八相成道(はっそうじょうどう)を具(そな)え、世に出現して我々を成仏に導くのでありますが、大日如来には八相成道がまったく存在せず、親も不明なら生まれた国も不明という、現実世界には縁のない架空の仏なのです。
大日経を説いたのは、当然ながら大日如来ではなく、実在の仏である釈尊です。理上の法身仏である大日如来が法を説くことなど有り得ません。にもかかわらず架空の大日如来が釈尊より勝れているなどというのは、本末転倒(ほんまつてんどう)の邪説でしかありません。

「顕劣密勝」「第三の戯論」の邪義

空海は、釈尊が現実に姿を現して説いた教えは方便であり、これを顕教として下し、大日如来が説いた密教である大日経が真実の教えであると主張し、さらに『十住心論』において「第一大日経、第二華厳経、第三法華経」などとして、法華経を「第三の戯論(けろん)」「三重の劣」と貶(おとし)めています。
しかし大日経は、釈尊50年間の説法のうち、42年間の間に説かれた方便(ほうべん)、権(仮)りの教えの一つでしかありません。
法華経の序分にあたる開経の『無量義経』には、
「四十余年には未(いま)だ真実を顕(あらわ)さず」
と説かれ、これまで42年間にわたって説かれた膨大な経典は、真実を説いたものではないと斬り捨てました。
また『法華経』の方便品(ほうべんぽん)には、
「唯(ただ)一乗の法のみ有り 二無く亦(また)三無し」
「正直に方便を捨てて 但(ただ)無上道(むじょうどう=最高の教え)を説く」

と説かれ、さらに『法華経』の安楽行品(あんらくぎょうほん)には、
「此の法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於て、最も其(そ)の上にあり」
と説かれ、法華経こそが最勝・真実の教えであり、真の秘密教であると自ら説かれているのです。
また、真言宗が依るところの『大日経』『金剛頂経』『蘇悉地経』のどこにも、法華経を「第三の戯論」と貶めるような文言(もんごん)も義も存在しません。これはすなわち空海の勝手な邪説であり、虚言です。

「理同事勝」の邪義

まず「理同」とは、『大日経』の「心の実相」「我一切本初(がいっさいほんじょ)」「大那羅延力」と、『法華経』の「一念三千」「久遠実成(くおんじつじょう)」「二乗作仏(にじょうさぶつ)」は同じ法理であるということです。
しかしこれは、善無畏が天台僧の一行をたぶらかして書かせた『大日経疏(だいにちきょうしょ)』が根拠となっています。
ここにおいて、「法華経の一念三千の法門が、大日経にもある」としたのですが、これは当時、善無畏が、特に勝れていた天台宗・法華経の一念三千の法門を盗んで取り入れ、大日経が勝れているのだと主張し、これを中国に弘めるためだったのです。
しかし一念三千の法門は『法華経』のみに説かれるものであり、その現証(現実の証拠)としての「久遠実成(くおんじつじょう)」「二乗作仏(にじょうさぶつ)」ももちろん、大日経には一切説かれていません。
日蓮大聖人が『開目抄』に、
「真言・大日経等には二乗作仏・久遠実成・一念三千の法門これなし。(中略)天台の一念三千を盗み入れて真言宗の肝心として」
と御教示のとおりであり、したがって法華経と大日経が「理において同じ」とする真言宗は、悪辣(あくらつ)な法盗人(ほうぬすっと)であります。
次に「事勝」とは、「大日経には印と真言が詳しく説かれているから、法華経よりも勝れているのだ」という主張です。
しかし『法華経』の方便品(ほうべんぽん)にも、
「為(ため)に実相の印を説く」
とあり、また譬喩品(ひゆほん)にも、
「我が此の法印は、世間を利益(りやく)せん」
と説かれており、別に大日経だけの独説ではなく、他にもいくらでもあります。すなわち、印(印契=いんかい)や真言自体は、それほど尊ばれるべきものではありません。重要なのは「教の勝劣」であり、二乗作仏・久遠実成・一念三千の法門のない大日経では、成仏は夢にも叶(かな)わないのです。
日蓮大聖人が『開目抄』に、
「其の上、印と真言とをかざり、法華経と大日経との勝劣を判ずる時、理同事勝の釈をつくれり」
と御教示のとおり、真言宗は一念三千の法門を盗むのみならず、さらに天台法華に勝ちたいがために事勝を主張したに過ぎません。

以上、真言宗について、その邪たる所以を述べました。真言宗は、真実の仏法とはかけ離れた邪宗に他なりません。
『涅槃経(ねはんぎょう)』には、
「邪宗の僧侶や幹部は、いかにも聖人君子のごとき人格者を装い、わずかばかりの経典を読んだりしていても、常に内心は信者から布施や寄付をしぼり取り、自分の身を長く養うことばかり考えている。袈裟(けさ)を着ているといっても、それはまるで、猟師が狙った獲物を細目でにらみながら忍び寄っていくごとく、また猫がねずみに跳びかかろうと身構えているごとく、少しでも多額の布施・寄付を搾取(さくしゅ)しようと、信者を狙っているのである」
という趣旨の経文があります。真言宗も当然、これに該当します。
皆さま方におかれましては、間違ってもこのような邪法邪師の邪義に惑わされることなきよう、くれぐれもご注意願いたいと思います。

“正しい宗教と信仰”