根本となる「妙法観」が上記のような有り様ですから、それによって「本尊観」も大きく変質し、根本的に狂いが生じてしまいます。
それが52年路線における「本尊模刻事件」となり、破門後に「ニセ本尊を製造・販売する」という大謗法を平気でできる、まともな信心では考えられない「感覚」を育て上げたのかもしれません。
幸福製造機
学会では昔から、「御本尊は幸福製造機である」などということを言っていました。そして御宗門においては、これをあくまで「広宣流布進展の過程における方便」ととらえ、あえて黙認しておられたのです。
この「幸福製造機」という言葉は、実に不遜(ふそん)極まりないものであり、御本尊を「日蓮が魂」とまで仰せになった大聖人様の御心を踏みにじりかねない、凡愚の浅はかさがそこにあります。学会の、御本尊に対する認識の崩れは、すでにこの時点から始まっていたのです。
幸福製造機であるということは、御本尊は「モノ」だということです。言い換えれば「打ち出の小槌(こづち)」みたいなものであり、我々に金銭財宝その他の利益(りやく)をもたらすありがたい曼荼羅、という感じでしょうか。
そもそもが創価学会の信心は現世利益を主とする「御利益信心」「乞食信心」が中心です。
よく学会の婦人部あたりが「こんなに頑張ってるのに、まだ功徳が出ない」みたいなことをしょっちゅう愚痴(ぐち)っています。本来、功徳とは「積功累徳(しゃっくるいとく)」であり、出るとか出すとかいうものではなく「積む」ものなのですが、こういう愚痴が出ること自体、やはり今でも「打ち出の小槌」感覚なのだと見て取れます。
しかし、総本山第二十六世・日寛上人が、
「亦復(またまた)当(まさ)に知るべし、若(も)し草木成仏の両義を暁(あきら)むれば、則(すなわ)ち今安置し奉る処(ところ)の御本尊の全体、本有無作(ほんぬむさ)の一念三千の生身(しょうしん)の御仏なり。謹んで文字及び木画(もくえ)と謂(おも)うこと勿(なか)れ云云」
(観心本尊抄文段)
と仰せのごとく、御本尊は「生身の御本仏・日蓮大聖人様の御当体」なのであります。それを学会のように「唯物本尊」扱いすることは、御本仏に対する冒涜(ぼうとく)であり、「摧尊入卑(さいそんにゅうひ=尊きをくだいて卑しきに入れる)」以外の何ものでもありません。
御本尊は象徴である
ニセ本尊の製造・販売以降、学会はさまざまな邪義・邪説を並べていますが、その一つが、
「御本尊は仏としての実体ではなく、象徴である」
というような狂った本尊観です。
つまり、「御本尊といっても、妙法の法理を象徴的に表しているに過ぎない。本体は自分自身の内にある。したがって、その自身に具わっている妙法十界互具の当体の上から、象徴である御本尊に向かって唱題することによって、自分の仏界を顕すことができる。これが『仏界涌現』である」ということです。
ここでもやはり御本尊は「モノ」扱いで、我々の中にある仏界を涌現(ゆげん)するための道具として存在するに過ぎません。
御本仏・日蓮大聖人が、
「日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」
(経王殿御返事)
「法華経の題目を以て本尊とすべし(乃至)釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給えり。故に全く能生を以て本尊とするなり」
(本尊問答抄)
「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり」
(草木成仏口決)
等々とお示しのごとく、御本尊様が「象徴である」などという御指南はどこにもありません。御本仏の御当体を「象徴」などと貶(おとし)めることは、とんでもない邪義に他ならないのです。
また「仏界涌現」ということも、上記の象徴論からすると変な話になってきます。あくまでも衆生の妙法の仏界を本体とし、御本尊はそれを現すための象徴であり道具と考えているわけですから、本来あるべき「境智冥合(きょうちみょうごう)」とはまったく違う大謗法になってしまいます。
日蓮正宗の信心においては、御本尊即ち御本仏・日蓮大聖人の御当体であり、御本尊を正しく仏様と拝して、一心欲見仏の信心において「境智冥合させていただく」ことが成仏の肝要であります。
総本山第二十六世・日寛上人が、
「心に本尊を信ずれば、本尊即ち我が心に染(し)み、仏界即九界の本因妙なり。口に妙法を唱うれば、我が身即ち本尊に染み、九界即仏界の本果妙なり。境智既に冥合す、色心何ぞ別ならんや」
(法華取要抄文段)
と明確に御教示のごとく、御本尊様は「仏界」であり、私たち衆生は迷いの「九界(くかい)」なのです。その九界の我々が、仏界の御本尊を「仏様の御当体」と信じて南無妙法蓮華経と唱えるところに、仏界即九界、九界即仏界、十界互具となり、境智冥合となるのです。
学会では「仏界も十界互具(じっかいごぐ)なら我々も十界互具であり、どちらも仏界を有することに変わりはない」みたいなことを言っていますが、それは理上の話であります。もちろん、衆生が十界互具だからというのは当然のことですが、それは正しく御本尊を信じ、境智冥合させていただくところにのみ、我々の仏界を成(ひら=開)くことが叶うのです。
学会のごとく、御本尊を単なる「象徴」としか拝せない信心で「仏界を涌現する」などというのは、禅宗と同じで虚妄であります。
本門戒壇の大御本尊を貶(おとし)める
池田大作・創価学会にとって最も邪魔なのは、実は御法主上人猊下よりも御本仏・日蓮大聖人であり、同時に「弘安二年十月十二日御図顕の、本門戒壇の大御本尊」です。
池田にとっては、自分が「ただ一人の法華経の行者である」とするためには、御本仏様が邪魔なのであり、またニセ本尊の製造・販売を正当化するためには、御法主上人猊下ただお一人による御本尊の書写・開眼の権能を否定し、さらに本門戒壇の大御本尊の御威光を忘れさせる必要があるのです。
学会員がいつまでも、本門戒壇の大御本尊を渇仰恋慕(かつごうれんぼ)していたのでは、学会としては非常に都合が悪い。
そこでまず、平成4年頃に作成した「学会版勤行要典」では、二座の観念文を「一閻浮堤(いちえんぶだい)総与、三大秘法の大御本尊に南無し奉り、報恩感謝申し上げます」と改変し、「本門戒壇」の文字を削除しました。この狙いは、本門戒壇の大御本尊を恋慕する意識を徐々に薄めていくことでした。
また平成5年の5月3日、池田大作は、外道のカトリック教徒である上智大学教授の口を借りて、
「宗教の究極は、板曼荼羅(いたまんだら)ではなく、久遠元初の法である」
などと、大聖人様の御当体である本門戒壇の大御本尊を蔑(さげす)む暴言を吐き、前述の「妙法観」よろしく、法だ法だと騒いでいます。
さらに池田は、平成5年9月7日の幹部会の席上、
「『もし、一瞬の信心があれば、すなわち、この信心の一念に一念三千の本尊を具(そな)える』これは日寛上人、有名なところだ、本因妙抄(註;この御文は観心本尊抄文段であり、池田の間違い)。たとえば水のある池には、月がただちに映るようなものである。宗祖大聖人が、この御本尊もただ信心の二字におさまれり、と言われたのである。信心の二字の中にしか、本尊はないんです。本門戒壇・板御本尊、何だ、寛尊は『信心の中にしか本尊はない』。ただの物です、いちおうの、機械です。幸福製造機だもの。信心、大聖人の御書だ」
と、あろうことか本門戒壇の大御本尊を「ただの物だ」と罵(ののし)り、またここでも「幸福製造機」などと言っています。これが池田の本音であり、いかに学会が会員たちを欺(あざむ)き「自分たちは大御本尊を信じている」ようなポーズをとっていても、それはウソ・偽りです。
御本尊はどれでも同じ
現在の学会員にとっては、本門戒壇の大御本尊も、かつて日蓮正宗よりお貸し下げいただいた御本尊も、さらには学会が勝手に製造・販売したニセ本尊も、「御本尊はどれでも同じ」なのでしょう。恐ろしい話です。
三大秘法のうち、「本門の戒壇」には、「事の戒壇」と「義の戒壇」の立て分けがあります。「事の戒壇」とは言うまでもなく、唯一「本門戒壇の大御本尊様(総体)の住処」であり、御戒壇様以外のすべての御本尊御安置の所は「義の戒壇」です。
各家庭に御安置の御本尊はすべて「一機一縁の御本尊(別体)」であり、本門戒壇の大御本尊の分身散影(ふんじんさんよう)であるそれら御本尊の所住は「義の戒壇」であります。
日蓮正宗の信徒は、「義の戒壇の御本尊」たる各家庭の御本尊を通じて(窓口として)本門戒壇の大御本尊を拝んでいるのであり、功徳を積ませていただくのも利益(りやく)をいただくのも、すべて本門戒壇の大御本尊様からなのです。
学会員は昔から、自分の家の御本尊と本門戒壇の大御本尊を切り離して考え、自分の家の御本尊から功徳を頂戴(ちょうだい)しているように考えているフシがありましたが、それがそもそも間違いです。すべては御戒壇様なのです。
そして現在、日蓮正宗から破門された創価学会に籍を置き、御法主上人猊下や御宗門を誹謗中傷する立場にいる以上、「信心の血脈」は断絶してしまいます。自分の家の御本尊が学会製のニセ本尊でなくとも、それはもはや「事の戒壇に通ずる義の戒壇」ではなく、本門戒壇の大御本尊とは断絶しており、いくら拝んでも功徳・利益はありません。
卑近な例えで恐れ多いですが、家の電球のスイッチを入れても、そこに電気を流すはずの電線が切れてしまっていたら、その電球がキチンとした本物でも、絶対に光りません。本門戒壇の大御本尊から切り離された一機一縁の御本尊には、功徳も何もないのです。
ましてや、それが学会製のニセ本尊では最悪です。最初から「魔性の札(ふだ)」なのですから、真剣に拝めば拝むほど、災いを万里の外から招き寄せかねません。
日蓮正宗の正しい信心に帰り、本門戒壇の大御本尊様に深く懺悔(さんげ)滅罪を祈らなければ、堕地獄は必定です。一日も早く信仰の寸心を改められ、創価学会の呪縛(じゅばく)から逃れられますよう、切に祈ります。