【宗祖】日蓮
【本尊】久遠実成の釈迦牟尼仏
【教典】妙法蓮華経開結十巻・日蓮遺文
【総本山】身延山久遠寺
【大本山】池上本門寺
※一般に「日蓮宗」というと、日蓮教団全体の総称として用いられていますが、ここで言う「日蓮宗」は、現在の法制上、宗教法人として認可されている身延山久遠寺を総本山とする身延・中山・池上等の一致門流(単称日蓮宗)を指します。
【宗祖】日蓮
【本尊】久遠実成の釈迦牟尼仏
【教典】妙法蓮華経開結十巻・日蓮遺文
【総本山】身延山久遠寺
【大本山】池上本門寺
※一般に「日蓮宗」というと、日蓮教団全体の総称として用いられていますが、ここで言う「日蓮宗」は、現在の法制上、宗教法人として認可されている身延山久遠寺を総本山とする身延・中山・池上等の一致門流(単称日蓮宗)を指します。
第二祖・日興上人が身延を離山された後、久遠寺の別当となった民部日向は、地頭の波木井実長の没後も波木井一族の外護を受け続けました。
正和3年(1314年)の日向の死後、身延山久遠寺は日善、日台、日院、日叡、日億、日学と続きましたが、当時の久遠寺は祖廟(そびょう)中心の一寺院に過ぎませんでした。寛正2年(1461年)に行学日朝が登場し、堂宇を現在地に移転して伽藍(がらん)を整え、教学・法式・諸制度の整備に努めました。
そして14代日鏡の時、徳川家康の武運長久を祈願したことを契機に、身延は徳川家の庇護(ひご)を受け、その後は徳川幕府の権威を背景に、絶大な権力と地位を確立していきました。
慶長6年(1601年)に日乾が久遠寺に登りましたが、その当時、豊臣秀吉の大仏千僧供養に端を発した「謗法の布施をめぐる不受不施論争」が日蓮門下全体を揺るがす大問題となりました。このとき日乾は「謗法の布施を受けて良い」とする受派の中心者となり、幕府と結託して不受派を制圧しました。
また寛永7年(1630年)には、不受派の池上日樹らとの法論があり、日乾等が身延代表として対決しました。そして身延は幕府の権力と結託して、不受派の6名を流罪に追い込むことに成功しました。そして幕府は、不受派の拠点であった池上本門寺等を身延に与えたのです。
これに乗じて、身延は幕府の権力をバックに多くの寺院を傘下に従え、一気に日蓮各派の主導権を握ることに成功しました。今日の身延派の教勢は、こうした政略的な背景によるものです。
以後、江戸中期ごろまで全盛を極めた身延でしたが、近年までにたび重なる火災を起こし、当時の伽藍のほとんどを失っています。
また、庶民の間で大黒天・鬼子母神等の番神(ばんじん)信仰が盛んになると、身延は各末寺と競って雑多な番神を祀るようになり、また「出開帳(地方布教)」なども行い、教団は経済的に繁栄しました。
しかし一方で、身延山や末寺で相続争いが多発し、身延の七面社殿が焼失して死者を出したことについて「七面邪神説」を唱えた当時の貫主(かんず)が、身延歴代から除歴されたうえ牢死させられるなど、教団は次第に教義的な退廃と混乱に覆(おお)われていきました。
その後、幕末ごろに優陀那(うだな)日輝が登場し、教団の改革を目指しました。さらに日輝は廃仏思想への対抗策として、『立正安国論』の精神を否定して折伏(しゃくぶく)を放棄し、教団存立のために、尊王思想(そんのうしそう)に迎合した摂受(しょうじゅ)偏重の教義を展開しました。
「日蓮宗近代教学の大成者」と呼ばれる日輝の教学は、伝統教学を否定し、神道・儒学・仏教の一致を強調した、摂受(しょうじゅ)主義に徹したものです。
これは、当初は教団内からも異端視されていましたが、明治に入って以降、この日輝教学が身延の主流になっていきました。
明治7年に「日蓮宗一致派」の初代管長となった日薩は、宗派名からの「一致派」の削除を明治政府に強く訴え、明治9年に「日蓮宗」と公称するに至りました。
しかしこの前年である明治8年には、身延山は失火によって、またも全山が炎上しました。この火災で身延の本堂をはじめ144の堂宇が全焼し、『開目抄』『報恩抄』等の重要御書をはじめ、数多くの御真蹟(ごしんせき)が灰燼(かいじん)に帰してしまいました。
この明治期の身延教団は、日輝の門下生によって独占支配されていました。それによって権威主義がはびこり、日輝門下およびその教学に、激しい批判が浴びせられるようになりました。
現在、日蓮宗は、民部日向以来の本尊雑乱(ほんぞんぞうらん)問題とともに、かつて「正当教学」とされた日輝教学に対する批判と修正が、今後の大きな課題となっています。
日蓮宗では、『法華経』寿量品に開顕の「久遠実成の釈迦牟尼仏」を本尊とし、日蓮大聖人の大曼陀羅は「久成の釈尊の広大な慈悲の世界を紙幅(しふく)に書きあらわしたものである」などとしています。
本尊の形態としては、
(1)首題本尊(題目のみを書いたもの)
(2)釈迦一体仏
(3)大漫荼羅(宗祖が紙幅に図顕されたもの)
(4)一尊四士(釈迦一体仏に、上行菩薩等の四菩薩像を加えたもの)
(5)二尊四士(釈迦・多宝の二仏像に、四菩薩像を加えたもの)
という5種類があるとしていますが、日蓮宗では、「木像造立の場合には、一尊四士の形態が久遠実成教主釈尊への帰依の心情に最もふさわしいものとの論がなされている」と説明し、現在の日蓮宗寺院の多くは、一尊四士の仏像を本尊として祀(まつ)っています。
日蓮宗では、『法華経』を所依(しょえ)の経典として、
■仏宝……久遠実成の釈迦牟尼仏
■法宝……南無妙法蓮華経
■僧宝……宗祖・日蓮大菩薩
という三宝を立て、日蓮大聖人を僧宝(そうぼう)に置いています。
『法華経』二十八品のうち、前半の十四品を「迹門(しゃくもん)」、後半の十四品を「本門」と呼びますが、この迹門と本門の勝劣について、一応は本門の優位性を認めながら、「二門は緊密な相関関係にあり、これを二分して本門のみを重視するのは不当である」という主張が「本迹一致説」です。
この本迹一致説を唱えたのは、六老僧の内、第二祖・日興上人を除く、日朗・日向など「天台沙門(てんだいしゃもん)」を名乗った一致門流の派祖、ならびにその後継者たちです。
日向門流の11代・日朝は、本迹は説法に前後浅深はあるが、その説かれる釈尊の真意である題目それ自体に違いはないという「本迹未分」の一体論を主張しました。
また、優陀那(うだな)日輝は、単純に迹門を否定するのではなく、迹門も本門もお互いに助けあって法華経の正意を顕(あらわ)すものであるから、本迹二門は「本迹相資」の関係にあるという一致論を唱えました。
六老僧のうち、第二祖・日興上人を除く、日昭・日朗・日向等の五老僧は、宗祖御入滅後、日蓮門下を名乗るがゆえの迫害を恐れ、一同に「天台沙門(天台の弟子)」を名乗り、その教義も天台ずりへと堕落していきました。
如法経(写経)や一日経などの像法時の行を修し、法華迹門の戒である大乗戒を用いるなど、とても日蓮門下とは呼べぬ有り様でしたが、この「本迹一致」も、天台大師の釈を基として立てた教判です。
しかし、日蓮大聖人は『治病大小権実違目』に、
「本迹の相違は水火・天地の違目なり」
と仰せであり、また『妙一女御返事』には、
「迹門は理具の即身成仏、本門は事の即身成仏なり」
と、法華経の本迹の相違を明確に御教示されています。
法華経本迹二門は、久遠実成の本仏と、始成正覚(しじょうしょうかく)の迹仏という仏身においても、その説かれる法体(ほったい)においても勝劣があり、その相違は宗祖御教示の通り、水火・天地のごとくです。
それを日蓮宗では「実相一体」だの「本迹未分」だのと勝手な解釈を加え、「本迹一致」という邪義を主張しているのです。これすなわち、宗祖の正意に違背(いはい)する謗法の論であります。
日蓮宗は、信仰の根幹である本尊について、いまだに宗祖の正意がどこにあるのか理解できず、本尊に関する御書を集めて候補を選び、その中から適当な形式を相談して決めるという、極めて杜撰(ずさん)な見解を発表しています。
その候補というのが先述の
(1)首題本尊
(2)釈迦一体仏
(3)大漫荼羅
(4)一尊四士
(5)二尊四士
であり、祖書の教示等に照らし、(4)の一尊四士を日蓮宗の本尊と定めるのが至当(しとう)、というものです。
日蓮宗では、『観心本尊抄』の、
「此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有(ましま)さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」
という御文を挙げ、「仏像出現」の語句によって「本尊は仏像が正意である」としているのです。これが日蓮宗の本尊の依文です。
しかし、「仏像出現」の御文の意味は、文中の正像の本尊に対する「造り画けども」という語句と、末法の仏像に対する「出現」という表現を対比しなければなりません。
「此の仏像出現せしむべきか」の意味は、後の「此の時地涌千界出現して」の御文と同じく、仏像の造立という意味ではなく、あくまで現実に現れるということを示されていると拝すべきです。
すなわちこの御文の真意は、末法に地涌千界が出現して、「本門の釈尊」を脇士とする未曾有(みぞう)の本尊を顕されることを明かされたものなのです。
また日蓮宗は、同じ『観心本尊抄』の、
「此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮堤第一の本尊、此の国に立つべし」
との御文について、「本門の釈尊を脇士と為す」と読むべきを、「本門の釈尊の脇士と為る」と誤読させ、これに依って「一尊四士が正意である」としています。
しかし、宗祖が御在世中に、一尊四士の仏像を自ら造立された事実はなく、『観心本尊抄』の御文も、一尊四士を本尊とせよとの御教示ではありません。
そのことは、宗祖大聖人様が佐渡以後、法本尊について御教示された御書に照らしてみれば明白です。
「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり」(草木成仏口決)
「妙法蓮華経の御本尊供養候ひぬ。此の曼陀羅は文字は五字七字にて候へども、三世諸仏の御師(乃至)此の曼陀羅は仏滅後二千二百二十余年の間、一閻浮堤の内には未だひろまらせ給はず」(妙法曼陀羅供養事)
「法華経の題目を以て本尊とすべし(乃至)釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給えり。故に全く能生を以て本尊とするなり」(本尊問答抄)
「問ふて云(い)はく、然(しか)らば汝(なんじ)云何(いかん)ぞ釈迦を以(もっ)て本尊とせずして、法華経の題目を本尊とするや。答ふ、上に挙ぐるところの経釈(きょうしゃく)を見給へ、私のぎ(義)にはあらず。釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり。末代今の日蓮も仏と天台との如く、法華経を以て本尊とするなり」(本尊問答抄)
これらの御教示と『観心本尊抄』の御文を合わせて拝するとき、宗祖の御真意は一尊四士などの仏像本尊にあるのではなく、まさしく宗祖が顕された大曼荼羅こそ、正像未曾有の「観心の御本尊」であることは明らかです。虚心坦懐(きょしんたんかい)に、日蓮大聖人の御教示をよくよく拝すべきです。
また、『真間釈迦仏供養逐状』や『四条金吾釈迦仏供養事』など、一部の信徒に与えられた数編の御書で、釈迦仏造立に触れられたものがあります。日蓮宗ではこれによって、宗祖が御在世当時、仏像本尊を認められた証拠だとしています。
しかしこれは当時、阿弥陀仏や大日如来を祀(まつ)る法華誹謗者が多い中、大聖人に帰依するにあたってそれらを捨て、釈尊像を造立したいと願い出た者に対して、あくまで曼荼羅本尊に導くため、一時的にその善根(ぜんごん)を称歎(しょうたん)されたものです。そうした個々に対する御化導(ごけどう)の真意を知らず、短絡的に「仏像本尊を認められている」などと勘違いしてはならないのであります。
以上のように、宗祖大聖人が御図顕の曼荼羅本尊を蔑(ないがし)ろにし、釈尊の仏像を崇(あが)める日蓮宗は、宗祖の御意に背く師敵対の大謗法教団と言わざるを得ません。
宗祖・日蓮大聖人は、日興上人に大聖人の仏法の一切を血脈相承(けちみゃくそうじょう)され、日興上人は一宗の総貫首(そうかんず)として身延に入山されました。その後、離山までの7年間に渡って久遠寺の別当職に就かれた事実に対し、他の五老僧を含め誰も異論をはさむ者はいませんでした。これが厳然たる史実です。
ちなみに『日蓮宗辞典』571頁には、はっきりと、「日興が院主、日向が学頭」と記されており、事実としてこれを認めているのです。
古来より、相伝とは唯授一人(ゆいじゅいちにん)です。天台は章安に、伝教は義真に、そして宗祖は日興上人に御相承あそばされたのです。
しかるに、「不相伝」である日昭・日朗・日向等の五老僧門流は、大聖人の正意を知らず、日興上人に従わなかったがゆえに本尊に迷い、仏像に執着して曼荼羅本尊を蔑(ないがし)ろにしました。
これは曼荼羅本尊書写に関しても同じで、日蓮宗では、曼荼羅の中に「日蓮大菩薩」と書いてみたり、「日蓮」の御名を削除してそこに自分の名前を書いてみたりと、不相伝ならではの誤りを犯しています(日向の場合は、身延において日興上人の義を知り得ていたため多少違いますが)。「日蓮大菩薩」などと、宗祖大聖人が御本尊に認(したた)められたことはありません。
日蓮正宗が日興上人以来、代々の法主(ほっす)上人によってのみ御本尊が書写され、授与されてきたのに対し、身延を中心とした日蓮宗各派の本尊の雑乱(ぞうらん)ぶりと、曼荼羅御本尊の軽視こそ、信仰の根幹である本尊に迷う不相伝の輩(やから)であることを、自ら証明しているのです。
日蓮宗の寺院には、現在も鬼子母神、稲荷、七面大明神など、三十番神をはじめ種種雑多なものを信仰の対象として祀(まつ)っています。
これはその昔、民衆への布教のために、世間で流行った三十番神信仰(法華守護の三十の神々が毎日交代で1ヶ月間守るという、天台宗の思想から起こった民間信仰)を積極的に取り入れ、曼荼羅の中に書き加えたのが始まりです。
ちなみに、映画『寅さんシリーズ』で有名な柴又の帝釈天は、実は「題経寺」という日蓮宗寺院であり、雑司ヶ谷の鬼子母神も「法明寺」という日蓮宗寺院です。どちらも、本堂の本尊よりも、別勧請(べつかんじょう)で祀った諸天が有名になってしまっている有り様です。
余談ですが、私(垢重丸)は、テレビ番組で柴又・帝釈天の「帝釈天像」を見ました。木の板に彫られた絵像でしたが、正直、幼児の落書きのようなものでした。寺の者は「日蓮上人が自ら彫られたとも言われている」などと解説していましたが、いくらなんでも悪質な冗談だと大笑いしてしまいました。
法華守護の諸天善神は、御本仏の一念である御本尊に内在し、それらは妙法の功徳によって守護の任を果たすのでありまして、諸天善神そのものを祀って信仰の対象とするのは誤りです。
日蓮宗は勧請などと称して、仏像や番神の絵像木像なども本尊と立てていますが、これは宗祖の御正意に背く行為であり、大謗法であると知らなければなりません。
ましてや、身延の門前で、宗祖の曼荼羅本尊の複製を、おみやげとして不特定の参拝客に売っているなどは、その神経に驚きます。謗法を戒め、他宗の者に一切、本尊を授与されなかった宗祖の厳しい教えを何だと思っているのでしょうか。
素朴な疑問です。
日蓮宗は、宗祖大聖人の御遺命である「広宣流布」をどう考えているのでしょうか。
折伏なくしては、広宣流布は夢物語に終わってしまいます。伝統教学を否定し、神道・儒学・仏教の一致を強調した、摂受(しょうじゅ)主義の日輝教学を捨てられない日蓮宗が、折伏などどうやってできるのでしょうか。
「法華折伏 破権門理」の精神は、日蓮宗にあるのでしょうか。
ましてや、雑乱本尊の有り様で、一体何を流布するつもりでしょうか。本尊に迷う日蓮宗には、流布すべき実体がないのです。
以上、日蓮宗について、その邪たる所以を述べました。日蓮宗とは、実は「日蓮」の御名を宗名に冠する資格などない、不相伝の、まったく異質な謗法宗団です。
『涅槃経(ねはんぎょう)』には、
「邪宗の僧侶や幹部は、いかにも聖人君子のごとき人格者を装い、わずかばかりの経典を読んだりしていても、常に内心は信者から布施や寄付をしぼり取り、自分の身を長く養うことばかり考えている。袈裟(けさ)を着ているといっても、それはまるで、猟師が狙った獲物を細目でにらみながら忍び寄っていくごとく、また猫がねずみに跳びかかろうと身構えているごとく、少しでも多額の布施・寄付を搾取(さくしゅ)しようと、信者を狙っているのである」
という趣旨の経文があります。皆さま方におかれましては、間違ってもこのような邪法邪師の邪義に惑わされることなきよう、くれぐれもご注意願いたいと思います。
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