創価学会との決別を 創価学会との決別を

創価学会【11】
創価学会との決別を


この第1章では、数項目にわたって、これまで創価学会が犯してきた大謗法を検証し、さらにその大謗法の果報の一端を垣間見ました。
しかしこれでもまだ、私が伝えたいことの半分も書けていないように感じます。それほど、創価学会の大謗法の所業は広汎・多岐にわたり、また根深いものがあり、このようなサイトでその全体をカバーできるようなものではありません。

私(当サイト管理者・垢重丸〈くじゅうまる〉)は、ただ単純に、
「信仰の良心を内に抱いたまま、いまだに創価学会に籍を置き、その大謗法に従ってしまっている人たちに、学会にいることの恐ろしさを伝え、早く信仰の寸心を改め、本門戒壇の大御本尊様の元に帰ってきてほしい」
という想いから、この第1章をまとめました。


元・創価学会員として

私は、元は創価学会員でした。
昭和56年11月から平成4年2月までの約10年間、創価学会に在籍していました。その間、男子部として活動し、創価班なるものも経験し、いろいろな意味で勉強になりましたし、また学会地元組織の先輩方にも大変お世話になりました。脱会してもそうした恩義は決して忘れてはいません。
しかしそれらの恩義は、世間法の上でのことであり、仏法の正邪の判別とは次元が違います。

私は、自身の因縁によって創価学会員から折伏を受け入信したことで学会員となりましたが、私はあくまでも「創価学会に入会したかった」のではなく、「日蓮正宗に入信したかった」のです。
その当時、私は法華講というものを知りませんでしたし、誰も教えてはくれませんでした。周囲の先輩学会員たちは「お寺に行かなくても会館に行けばいいんだ」といい、また法華講を「旧信徒」とさげすみ、「自分たちこそ日蓮大聖人様の仏法の本流である」との慢心に満ちていました。

しかし私にとって、創価学会での10年間は、本来あるべき日蓮正宗の正しい信仰のあり方とは思えない学会活動に大きな疑問を持ちつつ、また日蓮大聖人の仏法を修行するという自覚に極めて乏しい10年間であったと思います。

大謗法・創価学会を脱会

入信当初から、私にとっての尊崇(そんすう)は、第六十七世御法主日顕上人猊下でありました。年初の『大白蓮華』に掲載される御法主上人猊下の御尊影(御写真)を拝するたびに渇仰恋慕(かつごうれんぼ)し、日蓮大聖人の仏法の偉大さを猊下様のお姿に感じておりました。
しかし、周囲の学会員さんたちは違いました。
皆、口を開けば「池田先生」「池田先生」と、池田大作をまるで仏様にように崇め、猊下様のお名前が出たことなど一度も聞いたことがありませんでした。
池田名誉会長は、日蓮正宗の在家信徒団体である創価学会の、単なる代表者に過ぎません。大聖人様から連綿と続く、唯授一人血脈付法の御法主上人猊下とは比べようのない存在であるにもかかわらず、学会員は猊下も、さらには大聖人すら脇に置いて、ひたすら池田大作を礼賛していました。

こうした奇怪な信仰環境、また、どう考えても日蓮大聖人様仰せの広宣流布とは異質で苛烈な選挙活動などに対する違和感は年を追うごとに大きくなり、私は次第に学会活動から距離を置くようになっていきました。

それが平成にいたり、創価学会が日蓮正宗御宗門、さらには御法主上人猊下に対して悪口雑言(あっくぞうごん)を浴びせるという信じがたい大謗法の姿をさらけ出し、ついには平成3年11月、御宗門より破門されるに至り、私は、
「これで学会は終わった。ここにいては自分も大謗法になる」
と脱会の意志を固めました。
すぐに地元組織の男子部長に面会し、猊下・御宗門への大謗法を破折し、さらに地元幹部に脱会の意志を伝えましたところ、すぐに壮年幹部2名が私の家に押しかけてきました。
幹部は顔を真っ赤にして「仏法は勝負だ!」「地獄に堕ちるぞ!」等々とわめいて立ち去っていきましたが、その狂気の姿を見て、脱会することの正しさを改めて実感しました。
私が創価学会に執着することなく、池田大作に惑わされることなく、すぐに脱会の意志を持てたのは、「唯授一人の血脈(けちみゃく)への尊崇」に尽きると思います。 第二祖・日興上人爾来、現六十八世・日如上人猊下に至る「唯授一人血脈付法」がなければ、日蓮大聖人の仏法の令法久住(りょうぼうくじゅう)はあり得るはずもなく、この血脈相伝あればこそ、創価学会も昭和の時代に、この正法(しょうぼう)に巡り会うことができたわけです。
したがって、たかが信徒団体の代表に過ぎない池田大作ごときが、唯授一人の御法主上人猊下に弓を引くなどは驚天動地の大謗法であり、事ここに至って「御宗門と学会のどちらが正しいのか」など、悩む必要は一切ありませんでした。

晴れて日蓮正宗法華講の一員に

こうして平成4年3月より、私は晴れて日蓮正宗・法華講の一員となることができました。
以来10数年が過ぎましたが、本当に心の底から「脱会できて良かった」と身にしみて実感いたします。そしてその思いは年々に大きくなり、これからさらに10年、20年、30年と、ますますこの歓喜が大きくなると思うと、言いようのない幸福感に包まれてわくわくするのです。
創価学会にいた頃は、たとえば唱題をしていても何か、
「曇りガラスの向こうの御本尊様を拝している」
という感じが常にあり、本当にこれが日蓮正宗の信心なのだろうかと、歓喜の実感に乏しい、違和感に満ちた状態でした。

しかし今にして思えば、「御本尊は幸福製造機」だとか「宇宙のリズム」だとか、さらには「池田先生に呼吸を合わせるように唱題しましょう」とか、そういう大聖人様の仏法とはまったく違うおかしな指導の下で信心をしていたわけですから、まともな実感などあるはずもなかったのでした。
それが法華講員となり、御法主上人猊下に信伏随従し、菩提寺たる末寺の御住職の御指導のもと、講中の同士とともに信行に励む中で、「これが本来の正しい、日蓮大聖人の仏法なのだ」と初めて強く実感することができました。

一日も早く大謗法団体と決別しましょう

法華講と創価学会の信心は、まったく別世界のものです。学会時代には感じることのできなかった無量の功徳が、間違いなくここにあります。
だからこそ、いまだに学会に籍を置く人が多くいることが残念でならないのです。
完全に創価教に染まりきり、池田大作の尖兵・走狗となり、「先生が地獄に堕ちるなら自分もいっしょに堕ちる」と豪語し、日蓮正宗の誹謗中傷こそ第一と思うような、どうにも救いようのない学会員さんがいます。
しかしそうした方々も、どんなに遅くとも臨終の際には自身の謗法罪障の果報を身をもって思い知ることは間違いないですし、いったんは地獄には堕ちるのですが、いずれは遠い後生において必ずこの妙法によって救われることでありますので、それも仕方のないことと思います。
そうではなく、学会に疑問を感じつつも、謗法与同の恐ろしさにいまだ気づかずにいる人や、脱会したいけれども周囲の状況から困難である人、あるいは地域組織の人間関係のしがらみや情にほだされて抜けられずにいる人、さらには強引に入会させられて困っている人等にとっては、少なからず「脱会を真剣に考える」一助となってほしい……それが私の願いです。

いかなる理由であれ、創価学会に在籍しているということは、本人に悪意があろうとなかろうと、抜き差しならぬ大悪業(だいあくごう)を積むことになります。
その悪因は、遅かれ早かれ、必ずその人の人生に様々な形で暗い影を落とし、現当二世(現在世と当来世)にわたる「堕地獄の果報」となります。今生の不幸は言うまでもなく、後世の永きに地獄の底にあえぐこととなるのです。仏法の因果の厳しさを、よくよく深く考えなければなりません。

本門戒壇の大御本尊様は、皆さんを見捨てたりはしません。
正しい信心を乞い願い、これまでの謗法を深く反省懺悔(さんげ)し、末寺の門を叩くならば、いつでも、その大慈大悲の御威光に浴することが許されます。
勇気を持ってください。
日蓮大聖人様を「正しく」信じましょう。
心ある創価学会員の皆さんが、一日も早く信仰の寸心を改め、正しい信心に帰伏されることを切に願います。

“75000名大結集総会”
法華講75,000名大結集総会
(平成21年7月26日)

平成21年7月26日、諸天も寿ぐ好天に恵まれた中、総本山大石寺に78,423名もの全国法華講衆が参集し、御命題の75,000名大結集総会が盛大に挙行されました。

“正しい宗教と信仰”