顕正会【資料2】天母山・天生原について 顕正会【資料2】天母山・天生原について

【資料2】
天母山・天生原について


左京日教(大聖人御入滅後200年頃、京都要法寺の僧であったが、大石寺・重須方面に来て日有上人の門下に入った)が本宗に帰依して数年後に著述した『類聚翰集私(るいじゅかんしゅうし)』に、「天生原(あもうはら)に六万坊を立て、法華本門の戒壇を立つべきなり」と、天母山(あんもやま)ではないが、ここに初めて「天生原」云々という表記が出てきます。


京都要法寺の僧・日辰による戒壇説

要法寺日辰の説

左京日教の説より80年後、京都要法寺の僧・日辰(にっしん)が重須に滞在していた折に著作した『御書抄』に、
「富士山の西南に当たりて山名は天生山と号す此の上に於(おいて)本門寺の本堂御影堂を建立し岩本坂に於て二王門を立て六万坊を建立し玉(たま)ふべき時彼山於(かのやまにおいて)戒壇院を建立して……」
と述べ、ここで初めて「天生山(天母山)」の名が出てきます。
しかしながら要法寺日辰は造像、すなわち釈尊の像を中心として考えているので「岩本坂に於て二王門を立て」という主張となり、本宗の本門戒壇御本尊中心の戒壇とは異質の主張となっています。

日寛上人の御教示

要法寺日辰の説から約140年後、日寛上人は『報恩抄文段』に、
「次に事の戒壇と者(は)即富士山天生原に戒壇堂を建立する也」
と御著述あそばされています。天生原戒壇説は日寛上人がとられてから代々言われていますが、それは日寛上人の前後においては、御書や文献等、日辰の『御書抄』をはじめ要法寺の文献書籍を使っていた影響があります。
第二十九世・日東上人は、
「順縁広布の時は富士山天生山に戒壇堂を建立し、六万坊を建て、岩本に二王門を建つ等なり、尤(もっと)も辰抄の如きなり」
と、天生山戒壇説は日辰の言葉によるものであると明らかに仰せです。

四神相応と大坊棟札

四神相応

日興上人は『富士一跡門徒存知事』に、「本門寺を建つべき在所の事」として「富士山」「四神相応の勝地」と仰せです。
四神相応の勝地は大石が原のことであり、浅井の主張する天母山は四神相応の勝地に該当しません。
※四神相応についてはこちらをご参照ください。

『大石寺大坊棟札』は後世の偽作

浅井は『大石寺大坊棟札』を根拠として天生原を戒壇建立の地としていますが、この大坊棟札について第五十九世・日亨上人は
「(棟札は)石田博士も予(よ)と同意見なり。徳川時代のもの」(日亨上人御筆記)
と仰せられ、大坊棟札は江戸時代に作られた後世の偽作であると断定されています。浅井顕正会は、この日亨上人の御指南を間違いだと強弁するのでしょうか。
であるならば、科学的検証をもって大坊棟札が真正であることを証明しなければなりません。

“大坊棟札”
“正しい宗教と信仰”