要法寺日辰の説
左京日教の説より80年後、京都要法寺の僧・日辰(にっしん)が重須に滞在していた折に著作した『御書抄』に、
「富士山の西南に当たりて山名は天生山と号す此の上に於(おいて)本門寺の本堂御影堂を建立し岩本坂に於て二王門を立て六万坊を建立し玉(たま)ふべき時彼山於(かのやまにおいて)戒壇院を建立して……」
と述べ、ここで初めて「天生山(天母山)」の名が出てきます。
しかしながら要法寺日辰は造像、すなわち釈尊の像を中心として考えているので「岩本坂に於て二王門を立て」という主張となり、本宗の本門戒壇御本尊中心の戒壇とは異質の主張となっています。
日寛上人の御教示
要法寺日辰の説から約140年後、日寛上人は『報恩抄文段』に、
「次に事の戒壇と者(は)即富士山天生原に戒壇堂を建立する也」
と御著述あそばされています。天生原戒壇説は日寛上人がとられてから代々言われていますが、それは日寛上人の前後においては、御書や文献等、日辰の『御書抄』をはじめ要法寺の文献書籍を使っていた影響があります。
第二十九世・日東上人は、
「順縁広布の時は富士山天生山に戒壇堂を建立し、六万坊を建て、岩本に二王門を建つ等なり、尤(もっと)も辰抄の如きなり」
と、天生山戒壇説は日辰の言葉によるものであると明らかに仰せです。