【立教】安政6年(1859年)10月
【教祖】赤沢文治(金光大神)
【信仰の対象】天地金乃神、ならびに生神金光大神
【教典】『金光教教典』
【立教】安政6年(1859年)10月
【教祖】赤沢文治(金光大神)
【信仰の対象】天地金乃神、ならびに生神金光大神
【教典】『金光教教典』
金光教(こんこうきょう)は、教祖の赤沢文治(あかざわ・ぶんじ)が、祟り神(たたりがみ)であった金神(こんじん)を「天地金乃神(てんちかねのかみ)」と名づけ、「これこそ人類を救済する神である」と主張し創立した、神道系の教団です。
関西以西では名の知れた教団ですが、関東以北ではあまり知られていません。しかし金光教そのものは全国区ではありませんが、この金光教と関わりの深かった出口なおは、別項の「大本」の教祖であり、その大本からは数多くの新興宗教が誕生しました。中でも「生長の家」「世界救世教」は大きな教団となっています(別項で掲載)。
赤沢文治は文化11年(1814年)、現在の岡山県金光町に生まれました。
この地方は、昔から金神(こんじん)信仰が極めて盛んな土地でした。金神というのは、陰陽道(おんみょうどう)で説く「祟(たた)り神」で、年・月・四季に応じて住む場所を変え、この神のいる方位を侵(おか)して土木工事や建築、旅行などの行為をした人間は、身内が7人まで殺されてしまうと恐れられていました(金神七殺)。
つまり金神信仰とは、もともと怖い祟り神である金神を封じたり、除(よ)けたりしようと陰陽師(おんみょうじ)に祈ってもらうことから始まった信仰です。
さて、文治が29歳の時、まず長男が4歳で死亡しました。その6年後には、生まれて1年にも満たない長女が急死。その2年後、文治が37歳の時には9歳の次男が急死し、合わせて3人もの子供を亡くしました。
実は結婚の1年前には義弟と養父を亡くしており、今また我が子3人を亡くし、さらに三男と四男は重い疱瘡(ほうそう)にかかってしまいました。さらには、大事な飼い牛までもが2頭死んでしまいました。飼い牛2頭を加えれば、確かに7つの死。文治は「これぞ世に言う金神七殺の祟りに違いない」と思い込んだようです。
そして文治は42歳の時に、扁桃腺炎にかかり重体となりました。その病気平癒(へいゆ)を祈とう師に頼んだところ、その祈とう師が神がかり状態になり、「金神に無礼をしている」という神託(しんたく)が下ったのだそうです。文治がその非礼をひたすら詫びたところ、「神徳をもって助けてやる」と言われ、文治の病気も治ったのだそうです。
これを機に、文治はますます金神に執着するようになりました。
その2年後、まず最初に文治の弟に金神が取り憑(つ)いたといって、大騒ぎになりました。その乱心した弟の世話をしているうちに、とうとう文治自身が金神に取り憑かれてしまったそうです。
46歳になった文治は、金神から「世間に多くの難儀な氏子(うじこ)がいる。その氏子たちを取次ぎ、助けてやってくれ」という神命を受けたのだそうです。
この日から文治は、自宅の座敷を金神への取次の場所とし、人々の願いを金神に取り次ぐ生活に没頭するようになりました。金光教ではこの神命を「立教神伝」と呼び、この日(安政6年10月)を立教の日としています。
ある妊婦さんが文治の取次によって麻疹(ましん)を治したことが評判になり、次第に信者が増えて、立教から3年後には2カ所の出社を持つまでになりました。その後、神祇官長職白川家に入門し、神職補任状を授けられ、布教の公認を得ました。
明治元年(1868年)、文治は金神から「生神金光大神と名乗れ」と神託を受けたのだそうです。明治5年の戸籍法制定の時、「金光大神」という名前を届け出たものの受理されず、戸籍上は「大陣」となりました。
これ以降、文治は「金光大神」を名乗り、翌年には自分の信仰する神を「天地金乃神」と定めました。
また信仰の対象物として「天地書附(てんちかきつけ)」なるものを顕(あらわ)し、四男の萩雄と五男宅吉にもこれを書き写させ、信者に下附(かふ)するようになりました。
明治16年10月、金光大神(赤沢文治)が死去し、取次は五男の宅吉が継承しました。明治33年には、神道事務局の所属から「金光教」として別派独立し、「金光大陣」の名を受け継いだ四男の萩雄が管長に就任しました。
それからずっと時代が下り、昭和58年の「教祖100年祭」に本部総合庁舎を建設し、同時に「金光教教典」を発刊、さらに神社神道様式だった儀礼を教団独自のものに改めました。そして平成3年には、4代目教主・金光平輝が就任しています(令和3年退任)。
金光教では、「天地金乃神(てんちかねのかみ)」と教祖「生神金光大神(いきがみこんこうだいじん=赤沢文治)」を主祭神としています。
教会や信徒の家庭に掲げている信仰対象は、明治6年に文治が書き記した「天地書附(てんちかきつけ)」です。教団ではこれを「教祖が、信心の要諦(ようてい)を端的に示したもの」などと言っています。
教典は、昭和58年に発行した「金光教教典」です。これは教祖の著である「金光大神御覚書(おんおぼえがき)」と、弟子たちが教祖から聞いた教えの内容を収録した「金光大神御理解集一~三」等をまとめて収録したものです。
教団では、「信仰の実践、人々の救済方法は取次にある」と主張しています。信徒は教会に行き、献金をして、願いを神に取り次いでもらい、教主・教会主の口を通して神からのお知らせの説明を受けます。
信者は、そのお知らせの通りに行動し、さらに信心を深め、自らも他人を助ける立場、すなわち「生神になる」ことを信仰の目的としています。
この教団にはまともな教義らしきものがほとんど無く、したがって本尊についても、正直なところ明確な対象が定まっていません。
一応は、「天地書附(てんちかきつけ)」なるものを拝みますが、これも実際には本尊というよりは、拝む「目当て」ぐらいにしか考えていないようです。もともとが、信仰の対象として「絶対なる本尊が必要である」という教えがないからです。
信徒必携の『金光教の信心』には、
「親神のご神徳は天地宇宙に満ちあふれているから、どちらを向いて拝んでも神に心は届く」
「しかし、神を拝むには目当てがないと拝みにくい。柱でも、壁でも、生木でも、ここを御神体じゃと定めて拝めばよいのである」
などと書かれています。
要するに金光教というのは、原始宗教的な自然崇拝・庶物信仰に近い、低級な宗教であることが明白です。
金光教は、立教から140年以上たっています。しかしこの教団が教典らしきものを作ったのは昭和58年、「教祖100年祭」に至ってようやく、です。
要するに、この教団には教義と呼べるようなものは存在しないのです。すべては取次による神の言葉「お知らせ」がすべてであり絶対で、日常生活のすべてを神の命ずるままに行動せよと教えているだけです。
その神というものも、もともとは単なる俗信上の祟り神だった「金神(こんじん)」を、立教15年にしてやっと「天地金乃神(てんちかねのかみ)」なる名称に決定し、しかもいつの間にか「全人類を救う神」に勝手に昇格させたものです。この金光教の主張にはまったく一貫性がなく、こんないい加減なものを信じてどうなるのでしょうか。
それに、その「取次」というのも、またいい加減で、
「教祖がある時『お神酒をつけて接(つ)げば、割れた茶碗でも接げる』と言った。ある人が『それでは、私もいたしましょうか』と伺うと、教祖は『それでは茶碗接ぎの仕事がなくなって、飢えてしまう』と答えた」(教典)
などという馬鹿馬鹿しいものです。所詮は人間の単なる思いつきの言葉でしかなく、こんなものに日常生活のすべてをゆだねても、誰も幸せになどなれません。
金光教や大本など、新興宗教に多く見られる「神がかり信仰」ですが、この「神がかり」というのは何なのでしょうか。
精神医学では、この神がかりというものを「憑依妄想(ひょういもうそう)」と呼び、人間の主体性が失われて起こる「精神分裂病の一種」としています。
もし皆さんの家族がこのような状態になって「私は神のお告げを受けた」などと口走ったら、どう思いますか?
普通は「早く病院に連れて行かなきゃ」と大騒ぎになるでしょう。「神のお告げを受けたとは、何と素晴らしいことでしょう」などと信じる方がどうかしているわけです。
このような精神錯乱・精神分裂の妄想が出発点となっている宗教など、まともに信ずるに値(あたい)しませんし、誰もこれで救われることなどありません。
以上、ごく簡単ではありますが、金光教の教義についてその邪宗教である理由を述べました。皆さま方におかれましては、このような邪法邪師の邪義に惑わされることがありませんよう、くれぐれもご注意願いたいと思います。
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