正本堂が御遺命の戒壇などとの断定はない
日達上人は、昭和47年4月28日の『訓諭』において、
「正本堂は一期弘法付属書並びに三大秘法抄の意義を含む、現時における事の戒壇なり。すなわち正本堂は、広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。但し、現時にあっては、いまだ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。然れども八百万信徒の護惜建立(ごしゃくこんりゅう)は、未来において更に広布への展開を促進し、正本堂は正にその達成の実現を象徴するものというべし」
と仰せのとおり、「正本堂が御遺命の戒壇である」などとは一切断定されてはいません。
あくまでも、将来において戒壇「たるべき」であり、「これが戒壇堂である」などと仰せになっていないではありませんか。しかも、現時においては未だ一国謗法であり、戒壇の大御本尊は蔵の形式をもって御安置申し上げるとの仰せであり、「宗門七百年の悲願」などと誰が言ったというのでしょうか。
この当時、正本堂が御遺命の戒壇だと幹部を使って喧伝したのは池田創価学会の独断であり、日蓮正宗御宗門はそんなことは認めていません。この日達上人猊下の訓諭にあるとおりです。それでも違うというなら、きちんと文証を出してものを言ってほしいものです。
すでに存在しない正本堂
上記の通り、「宗門七百年の悲願の戒壇堂などではなかった」からこそ、正本堂は取り壊され跡形も無いのです。この事実が全てではありませんか?
それに、大御本尊が正本堂から御遷座されることをもって「御遺命守護の完結」と叫び、顕正会の年来の大目的としてきた浅井顕正会。本来であるならば、顕正会の存在意義はその時点で失われているのであり、なぜ未だに解散もせずに存続しているのか。
また「顕正会は、今の宗門には、もう求めるもの何ものもない」というのであれば、なぜ今もって日蓮正宗を誹謗し続けるのか、まったく意味がわかりません。顕正会は、とっくに解散されてなければおかしい集団であるのです。
田中智学の国立戒壇論
浅井は「田中智学が日蓮正宗の国立戒壇義を盗んだ」などと言っていますが、ふざけてはいけない。
田中智学の国立戒壇論とは、
◎「一宗模範正式本尊たる佐島始顕大曼陀羅の御正筆を奉安し、(中略)日本国教乃至閻浮同帰の戒壇本尊とすべし」(宗門之維新)
◎「宏大荘厳世界無比の大建築を以て、『戒壇遥拝殿』を三穂の清州に造り」(宗門之維新)
◎「王法と仏法が一体となった時、世界統一の大標示として『本門戒壇』の建設を勅命せらるる時」(日蓮聖人の教義)
◎「苟(いやし)くも『本門戒壇』を建て得る場合の日本国は、すべての点に於て、モハヤ世界の盟主である、(中略)世界は教法的に統一せられ、万国の帝王大統領も即位就任の式は、必ずこの本門大戒壇を踏んで、日本国天皇より大菩薩戒を授けられて、その式を全うするのである。此(この)場合の日本天皇は、世間的にすでに世界文武の長者、列国の治平の盟主にあらせらるる上に、更に教法上の大柄(たいへい)を握って、世界人類の思想信仰を支配したまふ所の、活ける明神である」(日蓮聖人の教義)
などとあるように、田中智学の国立戒壇論とは、
「現人神(あらひとがみ)・世界統一の盟主たる日本国天皇が世界を統一後、臣下となる世界中の衆生に戒を授けるため、佐島始顕大曼陀羅を奉安した国立戒壇を三保に建立する」
というものであり、日蓮正宗の義とは似ても似つかぬ国粋主義・覇権思想の邪説です。
これで何がどうしたら「田中智学が日蓮正宗の国立戒壇義を盗んだ」などと言えるのでしょうか。まったく意味不明です。
むしろ、浅井の言う天皇主権復活論こそ田中智学の亜流です。